2012年12月31日月曜日

今年も最後

除夜の鐘が聞こえてきました。

今年もあとわずかです。

一年間を導き、支えてくださった神様に心から感謝します。

また、途切れ途切れにしか投稿できなかったブログをご覧くださった皆さんにも感謝します。

皆さん、良い新年をお迎えください。神様の祝福がありますように。God bless you!

明日は、午前10:30から、新年最初の元旦礼拝です。ぜひおいでください。

 

 

2012年12月29日土曜日

アンネのバラのこと

 
今年は、アンネの日記で知られる、アンネ・フランクの形見のバラが日本に渡ってきて、40年の記念の年です。

40年前に、わたしたちのグループの聖歌隊がイスラエルの演奏旅行に行った先で、アンネの父、オットー・フランク氏に出会いました。平和を願うわたしたちの働きに共感して下さった氏は、アンネの形見としてつくられた新しい品種のバラを送って下さったのでした。

この平和を告げるバラを共鳴してくださる方々、教会、学校に送り届けるため、バラの株を増やすことになり、わたしの祖父がその依頼を受けました。今は、叔父がそれを受け継いでいます。

叔父の住む京都府綾部市のホームページでそのことが紹介されていました。

私事にもなり、恐縮ですが、ご紹介します。

 

綾部市ホームページ掲載  親子2代でアンネのバラを育成

 

アンネのバラは、千葉シャローム教会の花壇にも植わっていて、来年の5,6月ごろは美しい花を咲かせます。小さくあっても今も語り続けている、アンネの平和への願いの声を聞いていただければと思います。

 

 

2012年12月22日土曜日

この方を受け入れた人

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方を方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:9~12 新改訳)

今日は、今年最後の家庭礼拝が、旧教会の栄光クリニック2Fで行われました。初めて参加される方もあり、20名以上の方々がクリスマスの喜びを分かち合いました。

沢山クリスマスの讃美歌を歌い、美しいピアノと賛美の歌声に耳を傾けました。でも、その中心で愛され、崇められ、その誕生を祝われていたのは、イエス様です。

イエス様、今日の集いを喜んでくださいましたか?

イエス様が、今日お集いになられたすべての方々から愛されますように。 神は愛なり!

2012年12月18日火曜日

クリスマス・ファミリー礼拝

 

日曜日は、子どもから大人まで、家族そろって集い、教会でのクリスマスを味わうことのできる、ファミリー礼拝を行いました。教会は初めてという方も沢山きてくださいました。写真は、練習の時のものです。当日の写真は、教会のFacebookなどでUPしたいと思います。

プログラムは

🎶ミュージックベルの演奏

ハッピーサンデーにきているお友達を中心に、クリスマスの讃美歌を演奏しました。これまで、何度も何度も練習して、難しいパートもできるようになりました。とても良かったですよ!

🎶ペープサートの上演

これも子どもたちが「不思議な鐘」という感動的なクリスマスの物語を絵を動かしながら演じました。

🎶ピアノトリオの演奏

特別ゲストとして船橋を中心に音楽活動をしておられるグループ、Brioトリオのメンバーにおいでいただき、バイオリン、チェロ、ピアノの三重奏を生で聴いていただきました。みなさんとても喜んでくださいました。Brioトリオの皆さん、ありがとうございました。

🎶クリスマスの劇とクリスマスのお話し

教会の聖歌隊のメンバーと、子どもたち数名でクリスマスの聖誕劇を行いました。クリスマスの喜びが、そして、神様の愛が、伝わったのではないかと思います。とても、感動的でした。

 

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書2:10-12)

 

クリスマス・ファミリー礼拝

 

日曜日は、子どもから大人まで、家族そろって集い、教会でのクリスマスを味わうことのできる、ファミリー礼拝を行いました。教会は初めてという方も沢山きてくださいました。写真は、練習の時のものです。当日の写真は、教会のFacebookなどでUPしたいと思います。

プログラムは

🎶ミュージックベルの演奏

ハッピーサンデーにきているお友達を中心に、クリスマスの讃美歌を演奏しました。これまで、何度も何度も練習して、難しいパートもできるようになりました。とても良かったですよ!

🎶ペープサートの上演

これも子どもたちが「不思議な鐘」という感動的なクリスマスの物語を絵を動かしながら演じました。

🎶ピアノトリオの演奏

特別ゲストとして船橋を中心に音楽活動をしておられるグループ、Brioトリオのメンバーにおいでいただき、バイオリン、チェロ、ピアノの三重奏を生で聴いていただきました。みなさんとても喜んでくださいました。Brioトリオの皆さん、ありがとうございました。

🎶クリスマスの劇とクリスマスのお話し

教会の聖歌隊のメンバーと、子どもたち数名でクリスマスの聖誕劇を行いました。クリスマスの喜びが、そして、神様の愛が、伝わったのではないかと思います。とても、感動的でした。

 

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書2:10-12)

 

2012年12月14日金曜日

救いを見た

午前は緑区おゆみ野の信徒宅で家庭集会がありました。

ルカによる福音書2章22節~ 老シメオンとイエスとの出会いの箇所を学びました。

神殿において、救い主としてお生まれになったイエスと出会った場面です。イエスは母マリアに抱かれている幼子でしたが、シメオンの心の目は、この幼子イエスの内にメシアを見、神を見たのです。

その時彼は言いました。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29-30)


彼にそこまで言わせた、神様の救いとは、何と素晴らしいことでしょうか。

 

 

2012年12月13日木曜日

クリスマスファミリー礼拝

 

16日(日)のオープン礼拝、クリスマスファミリー礼拝が迫ってきました。

今日は、最後の案内用のチラシを配り終わりました。ブログに掲載しているのはポスターです。

聖書はクリスマスの知らせを「すべての民に与えられた、大きな喜び」と言っています。このチラシが届けられた方々に大きな喜びがありますように。

皆様のおいでを心からお待ちしています。

 

2012年12月12日水曜日

親子で参加!

 

午後には、小学校の前でクリスマス・ファミリー礼拝の案内を配らせてもらいました。

12月16日(日)10:30-12:00 何も持たずにおいでください。

お父さんやお母さんの許可をもらってから来るように伝えています。

子どもたちをぜひ送り出していただければ嬉しいですし、ご家族でおいでくださったら、なお嬉しいです。

お楽しみも、ありです。

 

神を見た少女

今から75年前の今日、8歳の女の子がイエス・キリストに抱かれながら、天国に帰って行きました。

彼女は、障害をもち、病弱な女の子でした。ある時、母親に連れられて、教会に行ってからというもの、自分を愛してくださっているイエス様のことが大好きになり、夢中になりました。けれども、父親からは教会に行くことを厳しく反対され、あまり行くことができませんでした。

あることがきっかけで体調が悪化し、病床で苦しみの中にあった時、自分の苦しみをも十字架の上で負ってくださるイエス・キリストを信じました。それだけではなく、イエス・キリストが十字架の上ですべての人の罪を赦されたように、障害をもった自分をからかい、いじめた学校の友達たちを赦し、また、神様を知らないがゆえに、教会に行かせてくれなかった父親を赦してくれるように、祈るのでした。

その彼女の心に、主イエス・キリストはおいでくださったのです。彼女は自分の心においでくださった神様をその心の目で見たのです。それだけではありません、まるで月が太陽の光を反射して輝くように、彼女の存在から神様の輝きが映し出されていました。

そして、その神様の輝きを反映しながら、「平安」「平安」「平安」という言葉を残して、彼女は天国へと旅立っていったのです。

彼女の姿は、まるで東方の博士たちが星に導かれてイエス・キリストのもとにたどり着くことができたように、それを見ていた人たちを神との出会いへと導くのでした。

彼女の母親はその姿を見て、ご自身も同じように神様と出会い救いを受けられました。

その時から、娘のことを通して、神様と出会うこと、救われることがどれほど素晴らしいことかを、生涯をかけて出会うすべてに人に証しされたのでした。

 

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)


 

2012年12月7日金曜日

偽りの言葉

月に一度行われるキリスト教入門講座の日でした。

モーセの十戒シリーズを学び始めて今日で九回目。

「偽証してはならない」(出エジプト記20:16)から学びました。

偽証とは分かりやすく言えば、真実でないことを証言することで、嘘をつくことです。

「嘘をつく証人」は神様がもっとも嫌悪されることの一つであることをしりつつ、人は何と数多くの嘘をついてしまうことか、改めて気づかされました。

また分かっていても、自分を変えることができない。そんな弱さを抱えているのです。

けれども、それは人間にはできることではないが、神にはできる。自分の現実が見せつけられたとしても、神様はそのような者をも変えてくださる。聖書のみ言葉から力を与えられ、祈りました。

 

「むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。」(箴言30:8)

2012年11月29日木曜日

話に耳を傾けます

木曜日は集会がないため、面談日としています。牧師も時間を空けるようにしていますので、何でも気軽にご相談、お話しに来ていただければと思っています。

ご相談を受けた回数は少ないですが、一応重なってもいけませんので、予約制とさせていただいています。もちろん秘密は守りますし、お金は要りません。

今日は、一人の80代のご婦人が相談に来られました。

牧師は、話に耳を傾け、必要があれば助言させていただきます。ご本人が望まれれば、共にお祈りをします。

ご相談に来られた方が、晴れ晴れとした顔をして帰っていかれる時、ホッと安心しますし、導いてくださった神様に感謝します。

お一人お一人の人生を神様が支えてくださいますように。

 

2012年11月28日水曜日

愛によって新たにし

祈祷会で学んだお言葉

旧約聖書のゼファニヤ書3:17

「お前の主なる神はお前のただ中におられ

勇士であって勝利を与えられる。

主はお前のゆえに喜び楽しみ

愛によってお前を新たにし

お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

 

神様は遠いみ空の彼方におられるのではなく、私たちの心を住まいとしてくださいます。

心の内で神様と交流するとき、神様は私たちの内から生きてくださいます。人を通して神様がこの地上を生きること。神様は望んでおられます。

では、私たちは神様の願いを満たし、神様を喜ばせているでしょうか?

自分の姿をみると、はいそうですとは、なかなか言えないかもしれません。

そんな私たちでも、神様は無条件で愛してくださっています。そして、その愛は私たちを造り変えて、愛で満たし、主イエス・キリストのように愛に生きる人にしてくださいます。

そうやって変えられた私たちを、神様は喜んでくださるのです。

何と恵み深い言葉でしょうか。本当に神様は愛です。

 

祈祷会の後は、クリスマスのオープン礼拝のチラシを配る準備をしました。次の日曜日に、ご近所にクリスマスの特別なオープン礼拝「クリスマス・ファミリー礼拝」のご案内をお届けします。

 

 

2012年11月26日月曜日

心と体の癒し

昨日のは健康感謝礼拝でした。語られたみ言葉を紹介します。

マタイによる福音書9:1-8

1イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。

2すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、⌈子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される⌋と言われた。

3ところが、律法学者の中に、⌈この男は神を冒涜している⌋と思う者がいた。

4イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。⌈なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

5『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

6人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。⌋そして、中風の人に、⌈起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい⌋と言われた。

7その人は起き上がり、家に帰って行った。

8群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

イエス・キリストは肉体の病を癒すだけでなく、罪を赦し、心の病をも癒すことのできるお方です。この方こそ、真実の神永遠の命です。

午後は、ハッピーサンデーでした。クリスマスの集会に向けて練習を積んでいます。

その後は、みんなでクリスマスの飾り付けをしました。小さなお友達も手伝ってくれて、とっても綺麗に飾ることができました。





2012年11月13日火曜日

医者を必要とするのは

午後に、ご病気の方を訪問しました。

病気による体の辛さは当然あるのですが、不安や恐れはそれ以上に耐え難い苦しみです。

イエス様がその苦しみを取り除き、救い出してくださるように一緒にお祈りしました。

 

イエス・キリストは言われます。

⌈医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。⌋(マタイ9:12,13)

ご病気を抱えていたり、心に苦しみを抱えている方は、自分は大丈夫と我慢しないで、救い主であり、癒し主である、イエス・キリストのもとに来てほしいと、心から願っています。ここに救いがあるからです。

 

2012年11月12日月曜日

イエスは御覧になった

「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。」(マタイ8:14)

保育園をお休みした5歳の娘と、私たち夫婦で信徒の方のお宅を訪問しました。

ご本人とも当然お会いしましたが、今回はご家族の方々とお会いできればと思っていました。

近くに住んでいるご親族、施設で暮らしているご親族、自宅を含めて4箇所訪問させていただきました。お話では聞いていても、実際そこに赴いて、お会いしてみなければ分からないことが沢山あります。

訪問中、イエス様がペトロの家に行き、病の中にあった彼の姑を愛と憐みの眼差しで御覧になり、癒していかれたお姿が思い起こされました。

幸い、その日は神様が備えてくださったのでしょう、親しくお話する時間と場所が設けられており、一緒にお祈りすることもできました。皆さん、色々な状況の中で癒しを必要としている方々ばかりです。ペトロの姑を癒された主が働いてくださったことを信じます。

 

2012年11月11日日曜日

病を負われるキリスト

オープン礼拝で語られたみ言葉。

 

14イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。

15イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。

16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。

17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。⌈彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。⌋

イエス様がご覧になったのは、高熱で床にふしている年老いた女性ですが、ただ病だけに目を向けられたのではありません。病のために自分の居場所を失い、自分は家族の役に立たないのではないか、自分は生きている意味もないのではないか、と独り寂しくしている彼女の全生活に目を向けられたのでした。

イエスの救いは、病気を癒すだけではなく、その人の心を、その人自身を立ち上がらせることだったからです。

彼女は、病癒されたとき、立って人々をもてなしはじめたのでした。

このことを通して、イエス・キリストは人々の患いを負い、病を担うと言われた約束の言葉が真実であることを、証しされたのでした。

そして、イエス・キリストは今も生きて、私たちの患いを負い、病を担っていてくださるのです。

神は愛です!

 

 

2012年11月5日月曜日

11月のオープン礼拝

 

来週の日曜日は、オープン礼拝です。

神様による癒しをテーマとして取り上げています。

肉体の癒し、心の癒し・・・今ほど癒しの必要な時はないのではないかと思わされています。

聖書には病や様々な困難な中にある人が、イエス・キリストを神として、救い主として仰いだ時、神様による驚くべき救いを受けたという記録がたくさん残されています。その救いの時代は今も続いています。

今度のオープン礼拝では、今もなお続いている神様の救いを、受け取らせていただきたいと願っています。祈りを必要とする方のためにも、お祈りさせていただきます。初めての方でも大歓迎です。ぜひ一度おいで下さい。

 

今日は夕方に、車で15分ほど走ったところにあるご家庭の、病に苦しむ方を訪問してお祈りさせていただきました。神様の救いが、すでに始められていることを信じます。

 

あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5:14,15)

 

2012年11月4日日曜日

キリストの顔に輝く神の栄光

礼拝で語られたみ言葉

ヨハネによる福音書9:1-7,35-41

1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2弟子たちがイエスに尋ねた。⌈ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。⌋

3イエスはお答えになった。⌈本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

5わたしは、世にいる間、世の光である。⌋

6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7そして、⌈シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい⌋と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、⌈あなたは人の子を信じるか⌋と言われた。

36彼は答えて言った。⌈主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。⌋

37イエスは言われた。⌈あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。⌋

38彼が、⌈主よ、信じます⌋と言って、ひざまずくと、

39イエスは言われた。⌈わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。⌋

40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、⌈我々も見えないということか⌋と言った。

41イエスは言われた。⌈見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。⌋

「自分は見えない」「暗闇の中にある」ということは辛いことですが、その人は救いを必要として、神様に近づくこうとしますし、神様もその人に近づいてくださいます。それは幸いなことなのではないでしょうか。

 

2012年10月28日日曜日

本当にこの人は神の子だった

神奈川県平塚市にある神言教会の先生を迎えての聖会でした。

「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、 『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(マルコによる福音書15:39)

ご自身の子ども時代のいじめを受けた経験を赤裸々に語ってくださいました。

「外ではいじめを受けて苦しんでいながらも、家では兄弟の一番上として暴君のように振舞っている。ある集会に出席している時に苦しんでいる自分よりも、自分の中にもある醜い罪のあることに気がついたのです。

自分の胸に手を当てて『我は主なり』と主の御名を呼び祈ったその時、涙が溢れ出し、御名が生き生きとわたしの内から流れ出たのです。

その後、十字架のキリストに目がとまりました。その途端、自分の心の内の何かが割れて、今まで感じたことのない、熱いものがその裂け目からあふれるのを感じました。

その時、百人隊長のように叫んだのです。『本当に、この人は神の子だった』イエス様は神様です。イエス様は救い主様です。

愛なる神様が、わたしの心にきてくださり、わたしは変わりました。・・・神様が共にいてくださるという強い感覚があり、孤独に対する恐れがなくなりました。仲間外れにして喜んでいたいじめっ子たちは、何をしても平気でいるわたしにいつの間にか関わらなくなっていきました・・・」

十字架のキリストに出会った先生のお姿から、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストが現され、一堂神様の愛の懐に飛び込んでいきました。 神は愛なり!

 

午後は、ハッピーサンデーが行われました。

みんなで蒸しケーキ作りをしました。とっても美味しくできました!

 

 

2012年10月27日土曜日

堤防は今も

 

衛川ホールの家庭礼拝では「津波だ!稲むらの火を消すな」(内閣府・防災担当監修)の紙芝居を見ました。

安政の南海地震で津波の被害を受けた和歌山県の広村であった実際の出来事です。

大地震の直後、自らの田んぼに干していた貴重な稲むら(藁を積み上げたもの)に火をつけ、村人たちを高台へと導いた濱口儀兵衛の功績を伝えています。

彼は、被災した村人たちのために私財をつぎ込んで、数々の困難を乗り越えて堤防を築き上げました。その堤防のおかげで、92年後の昭和の南海大地震の時に起こった津波から村は守られたのでした。明治の文豪、小泉八雲は彼の功績を讃え、彼を「生ける神」の一人として取り上げています。

イエス・キリストは、今から約2000年前に、十字架によって人類の救いの道を開き、完成してくださいました。

ある人は、それは過去のことであって、現代の私と何の関係があるか、と言います。

けれども、あの濱口儀兵衛の築いた堤防が、その後に起こった津波から人々を救うことができたように、イエス・キリストの築かれた救いは、現代の私たちにも有効です。

あなたは、このことを信じますか?

 

 

2012年10月24日水曜日

全力投球

 
「わがしもべやコブのために、
わたしの選んだイスラエルのために、
わたしはあなたの名を呼んだ。」(イザヤ書45:4口語訳)
 
祈祷会では、わたしたちの教会に与えられた使命について学びました。
聖イエス会は、1946年1月5日、創立者の大槻武ニ牧師に与えられた聖書のみ言葉によって生み出されました。それは、日本の人々の荒廃した心に愛と希望の種であるキリストの福音を伝える教会、イスラエルを通じて全世界が祝福を受けるという聖書のみ言葉の実現を祈る教会です。
 
大槻牧師の語られた言葉が心に迫ります。
「この偉大な使命を実現成就するために、全力投球を敢行なさねばならない」と。
特に「全力投球」という言葉に心が熱く燃やされ、力を与えられました。
一度限りの人生。わたしは神の言葉の実現のために、全力でチャレンジしたい。
 
 
 
 

2012年10月22日月曜日

土の中にある石ころ

今日は、隣の畑をしておられる方に、手伝っていただき、耕運機で庭を耕しました。

畑にするわけではないのですが、あまりにも雑草の勢いが強いため、根を掘り起こすことにしました。準備が整えば、芝を植えたいなと思っています。

それにしても、耕してみると、大小の石ころが出るわ出るわ!

人間の心は、畑に例えられます。良い地に蒔かれた種は、多くの実を結びますが、土の中に石ころがたくさんあると豊かに実を結ぶことができないのです。

心の中は見えないけれど、自分勝手とか、石ころがたくさんありそうです。み言葉の力によって、耕され、石ころを見つけたら一つ一つ取り除いてほしいです。豊かに実を結ぶために。

 

 

2012年10月21日日曜日

山をも動かす祈り

礼拝で語られたみ言葉の一節をシェアします。

マルコによる福音書11:22-24

:22 そこで、イエスは言われた。⌈神を信じなさい。

:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。


「神を信じなさい」という言葉の原典ギリシャ語を直訳すると、「神の信仰を持ちなさい」となります。神様の側に立った信仰です。その信仰が与えられた時、驚くべきことが起こると、教えられます。

たとえ目の前に大きな山のように立ちはだかる問題があったとしても、神様の側に立ったその時、それは問題ではなくなってしまう。そんな素晴らしい信仰の世界をもっと経験していきたいです。

 

礼拝のあとは、秋の教会大掃除を行いました。まだまだ新しい教会ですが、だいぶん汚れてきますね。お手伝いくださった皆さんのおかげでとってもきれいになりました。

掃除のあとは、おにぎりと豚汁をいただき、しばし交わりのひと時も持つことができ、楽しかったです。

 

 

 

2012年10月14日日曜日

神の愛

今日は柏市にあるゼカリヤ教会で聖会の講師としてメッセージを語らせていただきました。ゼカリヤ教会は、千葉シャローム教会の親教会でもありましたし、また、個人的にいえば大学生時代に通っていた第二の母教会でもあります。懐かしい方々と共に、み言葉に学び、主の名を呼んで礼拝できたことは感謝なことでした。
永遠の命に生きるというテーマで語らせていただきましたが、人々の心に命を注ぎたいと願われる、イエス・キリストのみ思いが迫ってきて感動しました。

 

 

 

 

 

 

千葉シャローム教会の礼拝では、十字架のメッセージが語られ、神の愛が力強く語られました。

「十字架の言葉は、・・・わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙 一 1:18)

「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネによる福音書19:30)




 

2012年10月10日水曜日

幸せなら態度で示そうよ

「幸せなら手をたたこう」の歌詞は、わたしたちが再び武器をとって戦わないことを誓い、「平和」な世界を作り出そうという聖書のメッセージが入っているそうです。

第二次大戦で日本軍によってフィリピンの多くの方々が犠牲になりました。

戦後、フィリピンの人々は、戦争の苦しみや悲しみを思うと、日本人が目の前に現れたら、殺してやりたいとまで思いつめていました。

しかし、クリスチャンであった彼らは、キリストの愛を知りキリストが十字架の上で自分たちの罪を赦すために死んでくださったように、自分たちも日本と日本人への憎しみを乗り越えて、キリストの愛によって平和な世界を作ろうと決意したのでした。

今から50年以上前の話ですが、赦すには大きな痛み、大きな犠牲を伴います。けれどもイエス・キリストの十字架はそれを可能としたのでした。

キリストが彼らの心の中で平和となり、彼らはその態度によって、赦しを実行したのです。

作詞者がフィリピンに赴き、フィリピンのクリスチャンと共に働き、聖書を読み、祈って行く中で、彼らは語ってくれたのです。「わたしたちはキリストのにあって、ともだちなのだ」と。

 

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロサイ1:21ー22)

 

 

2012年9月30日日曜日

十字架の言葉は神の力

礼拝では、京都で行われた秋の聖会のDVDをみました。

今、自分の人生をすべてイエス・キリストに捧げ、神学院で学んでおられる方の救いと献身の証しです。

キリスト教と何の関係もなかった彼の家庭・・・両親の不仲、母親の病、兄弟の不登校・・・は冷たく冷え切り、もうどうにもならない状況にまで陥っていました。そんな彼の家庭にキリストの愛が伝えられたのでした。

藁にもすがる思いで母が教会に導かれ、そこで病が癒され、やがて母親がイエス様を心に迎え、続いて不登校だった兄弟がイエス様を心に迎えるだけでなく、難しいと思われていた就職も決まっていくという奇跡が続きます。

けれども、彼の心は固く閉ざしたままでした。ところが、交通事故をきっかけに、教会に導かれ、まるで氷のようだった彼の心は次第に神様の愛によってとかされ、ついにイエス様をここに迎え、その人生が大きく変わって行きました。

教会に通うことが本当に嬉しく、イエス様のために全生涯を捧げたいという思いがあふれました。彼は今、牧師になるために神学院で学んでいるのです。

イエス・キリストの十字架はどんな人でも変える力をもっている。聖書の言葉の実現をここに見ました!

 

「十字架の言葉は、・・・わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

 

午後はハッピーサンデーがおこなわれました。

早くもクリスマスの準備開始! ミュージックベルに挑戦することになっています!みんな頑張って!

 

 

2012年9月29日土曜日

I love you

旧教会の栄光クリニック2F衛川ホールで家庭礼拝が行われました。

イエス・キリストの十字架のメッセージが語られました。

明治の作家で、二葉亭四迷という人がいますが、彼は英語の"I love you"を訳すのに悩みに悩みます。

当時は今のように「愛」という言葉が使われていなかったようです。

悩んだ挙句、彼は次の名訳を生み出しました。"I love you" 「あなたのためなら死ねる」と。

素晴らしい訳だとは思いませんか?

何の条件もなく、ただ、愛する人のために命さえも投げ出す。真実の愛を表していると思います。

そして、イエス・キリストは、この愛を十字架の上で示してくださったのです。

 

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(ヨハネの手紙 一 3:16)

 

 

2012年9月26日水曜日

十字架のキリスト

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(1:23)

「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(2:2)


今日の祈祷会では、先日京都で行われた聖会のDVDを見ました。

キリスト教の迫害者であったサウロが偉大な使徒と変えた、十字架につけられたキリストとの出会いを一同心から求め、祈りました。私もイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを、言葉だけでなく、全存在から証しする者となることができますように。

 

2012年9月17日月曜日

わたしに従いなさい

昨日の礼拝では、創立者の故・大槻武ニ牧師がその夫人・筆子師が天に召された後に筆子師の信仰生涯を証してくださったビデオを見ました。

「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 (創世記 12:1 口語訳)

「あなたは、わたしに従ってきなさい」。 (ヨハネによる福音書 21:22 口語訳)

信仰の先輩たちの姿から、神様を信じ、神様に従うことの素晴らしさをもう一度教えられ、大いにチャレンジを与えられました。そして、次の世代に託されたバトンをしっかりと受け取り、神様の思いが実現することができるよう、奉仕したいと思います。

 

日曜日の午後は、近所のお友達を招いてのハッピーサンデーが行われました。連休ということもあってか、レギュラーメンバーの参加がありませんでしたが、初めて参加してくれたお友達とも楽しい時間を過ごすことができました。

踊りつの歌・・・アブラハムには七人の子

手話さんび・・・神の国と神の義を

おはなし・・・ツールのマルチン(他の人に親切にしよう!)

第二部は、バルーンアートに挑戦。みんな初めてでしたので、割れないかな?とおっかなびっくりで、ドキドキしながら作ってみました。コツがつかめてくると、スピードもアップして、かわいいワンちゃんができました。

 

 

2012年9月14日金曜日

神の栄光のため

今日は、緑区おゆみ野で家庭集会がありました。


ラザロの復活の箇所を学びました。

ラザロが瀕死の病にあるとき、ラザロの姉妹がイエスに訴えたとき、イエスは答えられました。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハネ11:4)

病の苦しみの中でイエスを信じて救いを求めるときこそ、イエスが神として働かれる時です。

それがいつになるのか、それは神様の領域で私たちにはわかりません。

でもイエス様は言われるのです。

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と。

信じないものではなく、信じるものとならせていただこうではありませんか。

 

明日は教会のすぐそばの千葉北高校の文化祭だそうです。うちの子どもたちもお邪魔するようです。よろしくお願いします‼

 

 

2012年9月12日水曜日

ヨルダンを渡れ

祈祷会のみ言葉

「ヨシュアは民に言った。『自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。』ヨシュアが祭司たちに、『契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ』と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。」(ヨシュア3:5,6)

イスラエルをエジプトから開放した偉大な指導者モーセの亡き後、イスラエル人を約束の地、カナンに導く役割を任されたのはヨシュアです。約束の地に入るためには、どうしても目の前の荒れ狂うヨルダン川を越えて行かなければなりません。「強く、雄々しくあれ」といつもヨシュアを励まし力付けられる神は、ヨシュアを通してイスラエルの民にヨルダンを越えて行くための備えをさせたのです。

契約の箱を見つめること、自分自身を聖別すること、そして祭司は契約の箱を担ぎ、民に先立って川を渡って行くことでした。

契約の箱は神の名をおく場所で、神ご自身を表しています。

聖別するとは、分離する、切り離すという意味があって、自分にとらわれるのではなく、すべてを神様を全く信頼することを意味しています。

最後に祭司は民に先立ってヨルダン川に踏み込んで行くことが求められました。

神様を見つめ、神様を信頼し、信仰と勇気をもってヨルダン川に足を踏み入れた時、神様は約束通り驚くべきことを行われたのでした。

ヨルダン川は割れ、民は向こう岸へと渡ることができたのです。

 

今日も祈り、信頼をもってヨルダン川はという新しい道へと踏み込んでいきたいと思います。この地域の人々が神様と共に歩む素晴らしい世界を知ることができることを願いつつ。

 

2012年9月7日金曜日

神にかたどって

キリスト教入門講座をはじめて今日で22回目。

教会に来はじめて間もない方の受け皿としていつでもおいでいただけるように続けています。時々来られて間もない方も出席して下さいますが、普段は聖書をもっと知りたいと思う方たちが数名続けて出席しておられます。

今年に入ってから、モーセの十戒を学び始めています。今日は第六の掟を学びました。

「殺してはならない」(出エジプト20:13)

殺人について、死刑について、自殺について、最後には戦争について、聖書の観点からこれらの事柄について考えてみました。

ではなぜ人を殺してはならないのか。

聖書はこういっています。
「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(創世記9:6)

目に見える姿形ではなく、内面(霊といいますが)において、人は神の形に造られたから、人の命を奪うことはこの世でもっとも貴重な、もっとも聖なるものの崩壊を意味しています。


あなたという一人の人間は尊い存在なのです。


2012年9月4日火曜日

歩くキリスト

あまり多くの人に知られていないかもしれませんが、東日本大震災で被災した東北の各地で、ボランティア活動をしているクリスチャンの団体があります。アメリカのサマリタンズ・パースという団体はその一つです。わたしの友人も、その団体に加わってボランティア活動をしてきました。

クリスチャンのボランティア活動を通して、東北の地で心を開きキリストを受け入れ始めている人が多いと言います。

その中の一人の男性は、こう証言しています。

「わけの分からない外人がいて、最初は変な団体だと思いました。でも(ボランティア一緒に)やってみて感じたのは、まあ口ではちょっと…言い表せませんね。とにかく、人を悪く言わない。こんな人間いるのかよと思いました。毎日そんな状態が続くので認めざるを得なくなって…初めは変な人たちだと思ったけれど、すごい人間の集まりだと思って…」

ある仙台の牧師は語られました。

「ボランティアたちは言葉で伝道するわけでなく、歩くキリストというか、昨年3月以来の生活を通して真実な証しがこういう反応につながったと思います。・・・神のみわざだと感じます。」

素晴らしい証だと思います。

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネの手紙一 3:18)

 

 

2012年9月2日日曜日

あふれる愛と 輝く喜び

今月のオープン礼拝は、チャペルコンサートでした。

神奈川県厚木市にある平和教会のアイル聖歌隊の皆さんの賛美、聖書のメッセージそして体験談が語られました。

一曲一曲讃美歌が歌われるごとに、また聖書のみ言葉が語られるごとに、神様の愛が迫り、大きな感動と喜びとなって心からあふれました。まさに、あふれる愛と輝く喜びでした。

今日は、朝から天候がすぐれず、大雨となってしまいましたが、悪天候の中、また足元の悪い中、多くの方々が足を運んでくださいました。おいでくださった皆さん、ありがとうございました。

また、朝早くからおいで下さり、素晴らしい賛美をささげてくださった聖歌隊の皆さんに心から感謝します。

 

2012年9月1日土曜日

チャペルコンサートでお待ちしています
















いよいよ明日はチャペルコンサート。

天気がちょっと心配ですが、ご近所の皆様のおいでをお待ちしています。

駐車場、子ども部屋あり。普段着で、お気軽においでください。

明日は、国内のいくつかの教会でもチャペルコンサートが行われる予定です。
また、台北の教会でも、日本から青年たちが賛美と証による音楽集会が行われます。

明日の各地のチャペルコンサート、礼拝が祝福されますように。


2012年8月30日木曜日

チャペルコンサート2012

 


待望のチャペルコンサートが近づいてきました。

ご近所の皆さんには案内のチラシが届けられていると思います。

どうぞおいでください。皆さんのお出でをお待ちしています。

 

2012年8月27日月曜日

罪人を招いて

イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)

2週間前の礼拝で、80代の女性がその心にキリストを迎え入れられました。

キリスト教とは何の縁もなかった方でしたが、様々な苦しみの中で友達の紹介で初めて教会に足を運んでくださり、数か月通い続けておられました。

最初は半信半疑だったようですが、神様の愛に触れるにつれ、イエス・キリストこそ神、救い主だと信じるようになり、ついにその心に迎えられたのでした。

その時から、彼女の心は大きく変わっていきました。今までは自分は正しいと思って、相手の間違いを正すことに躍起になっていたのですが、イエス様に触れ、心の中でイエス様と交わる内に、間違っていたのは自分自身だったと思うようになったそうです。

神様の前に自分自身の罪をさらけ出し、悔い改めたその時、イエス様は十字架の上ですべてを負ってくださったのです。

昨日の礼拝の後、お話しを伺いますと、肩から荷が降りたような気持ちですと話してくださいました。

聖書もほとんどご存知ない方です。でも彼女の心の中にお出でになられたイエス・キリストは生きて、ご自身の救いを着実に行っていてくださることを、まざまざと見せていただき、大きな感動を与えられました。

主よ、感謝します。イエス様は今も生きておられる真の神様です!神は愛なり。

 

 

 

2012年8月17日金曜日

バッハと弟子たち



昨晩、家内の実家・神戸に帰省中、西宮で行われていた友人の出演する声楽アンサンブルのコンサートに行ってきました。

いろいろな分野で活躍している若手の音楽家達で結成している声楽アンサンブル”ヴォイスペクティヴ”による演奏でした。アップしている音源は、昨年の演奏のようです。

今年は、第3回目のコンサートは「《継承》と《変容》 ― バッハとその弟子たち 創造の源」と題して、バッハとその弟子、そしてバッハの教会音楽に影響を与えた作曲家の作品が演奏されました。

ミサ曲、カンタータと、宗教曲が取り上げられていたため、アンサンブルの美しいハーモニーに浸りながら、対訳と照らし合わせつつ味わわせてもらいました。

難しいことは分かりませんが、一つ一つの言葉が心に迫り、まるで礼拝をしているような気持ちになり、深い感動を味わいました。

遠く離れた地で、このような機会を得ることができ、神様に、そして案内をしてくれた友人に感謝しています。



2012年8月12日日曜日

永遠の命を生きる

礼拝で学んだみ言葉をお伝えします。

ヨハネによる福音書20章30節、31節


20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ヨハネによる福音書11章25節、26節


11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」


人間には肉体の命と、霊魂の命があります。この霊魂が永遠の命である神を心の中に持ち、永遠の命を生きることこそが、この福音書が書かれた目的であり、神の愛の御心でもあるのです。

礼拝において、一人の80代の婦人が、礼拝中に御名によって神様とお出会いになり、永遠の命を体験されたようです。また、その様子をお伺いしたいと思いますが、ここでも神様の御心が実現したかと思うと感謝でいっぱいです。 神は愛なり!


2012年8月8日水曜日

朝顔オリンピック

 
信徒の方がくださった朝顔の苗を植えました。

緑のカーテンにすべく、ネットを張ってしばらくすると、ツルがどんどん伸びてこんな感じに。

だれも注目していませんが、まるでオリンピックさながらです。第四コースの弦が、見事に優勝しました。

わたしは水をやっていただけですし、朝顔が特別な努力をしたわけではありません。やっぱり神様が成長させてくださったのです。

聖書にこんなお言葉があります。(「わたし」とは使徒パウロのことです。)

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(Ⅰコリント3:6ー7)

わたしたちの魂を救い、成長させてくださるのも神様なのです。

 

今日の祈祷会では、台湾、アメリカの信徒の方々、そして柏にある教会でご奉仕をしておられる牧師ご夫妻をお迎えして熱い祈りの時を持つことができ、本当に感謝でした。一同神様の御名に対する生きた信仰を持つことができるよう、求めつつ、主の御名を呼び求めました。

「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。」(詩編20:8)

 

 

2012年8月7日火曜日

真の勝者


オリンピックに関連したニュースの一つに目が止まりました。

「北京五輪で初の金メダル数世界一となり、ロンドンでも米国と激しく金獲得を争う中国の代表選手から、『メダルは重要でない』との趣旨の発言が相次ぎ、注目を集めている。・・・

 『ようやく分かったのは、メダルを取ることだけが真の勝者ではないということ』。」


他の国の選手と合宿をしている際に、メダルを獲得するだけではない人生の豊かさのようなものを目の当たりにしたといいます。もちろん賞を得ることは素晴らしいことですが、彼らはそれだけでは測れない何かを感じ取ったのでしょう。

記事を読んでいて、ちょうど日曜日のオープン礼拝で紹介した絵本の物語が重なってきました。

木で作られた小人たちは、才能があったり、他の人ができないようなことができると、金色の星印のシールを貼ってもらい、逆に何もできなかったり、失敗ばかりしている小人には灰色のダメじるしシールが貼られるのです。この物語は、何ができるか、できないかで、人の価値は決められるのではないことを教えています。そして、つくり主がその人をどれだけ大切に思っているかを知ることの方がもっと大事だと教えているのです。

人生の真の勝者は誰なのか、考えさせられますね。

 

2012年8月5日日曜日

あなたは価高く、貴い

今日は月に一度のオープン礼拝でした。

「たいせつなきみ」という絵本をスライドにして見ていただきました。

エリという彫刻家によって作られた木の小人たちの世界のお話で、人の価値は才能や、容姿で決められるものではなく、つくり主がどれだけその人のことを大事に思っているのか、ということを知ることが大切なのだというメッセージを伝えています。

今日の中心の聖書のみ言葉が迫っています。

「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)ている。



2012年8月2日木曜日

8月のオープン礼拝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご近所の皆さんには、8月のオープン礼拝の案内をお届けしています。

オープン礼拝は、教会は始めての方でも出席しやすい礼拝です。

お気軽に参加してみてください。お待ちしています。

 

2012年7月31日火曜日

わたしに見せてくれた

「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」 (ヨハネの黙示録 22:1, 2 口語訳)

今日は、神学院時代の先輩の先生に同行させていただき、聖イエス会の初期の先生から聖イエス会の創立当初のことをお伺いすることができました。とても貴重なひとときでした。

お話しの最後に、若い牧師たちに対するメッセージを求めますと、最初に記したみ言葉を引用して、一言だけ語ってくださいました。

「わたしたちの群れの創立者は、命の水の川、すなわち神ご自身を見せてくれました。これが使徒(クリスチャンともいえる)の標準です。その人の器量の大小は関係ありません。集会などのスタイルも関係ありません。神ご自身を見せるというこの標準を目指して進むことが大切なのだと思います」と。

この言葉で、聖イエス会という群れが、何を目指しているのか理解していただけるのではないかと思います。

 

2012年7月29日日曜日

ただ信じなさい

礼拝で語られたメッセージでは、マルコによる福音書5:21-24,35-42から語られました。

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほ とりにおられた。

5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、

5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」

5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。


5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。

5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、

5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」


5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。

5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

教会学校のサマースクールの報告を兼ねて、子どもたちがメッセージのメインの部分を、サマースクールでチャレンジしたように語ってくれました。

子どもたちの純粋なメッセージに大人たちも感銘を受け、また人間にはできないことも、神にはできるとの純粋な信仰を与えられました。メッセージを練習して語ってくれたお友だち、ありがとう!

 

2012年7月28日土曜日

心の渇きをいやす水



今日は、栄光クリニック2階(衛川ホール)で家庭礼拝がありました。

暑い中にもかかわらず、近くの信徒の方も含め、20名以上の方々が出席してくださいました。皆さん、ありがとうございます。

参加している方々を見渡しますと、ほとんどの方が栄光クリニックの患者さんです。衛川先生ご夫妻を慕い、出席してくださる方もおられます。

今日は、お集会の後のお茶の時間は、テーブルを囲んで大きな輪になって座り、参加してくださった一人ひとりに自己紹介などをしていただきました。心の支えを求めて出席してくださる方、まだ神様のこともなにもわからないけれども、とにかく出席しておられる方。神様との出会いを求めている方。色々な方達の集まりです。皆さんの通ってこられたこれまでの歩みをじっくりと聞かせていただき、感謝でした。

今日は、人間がもっている二つの渇きについて学びました。

一つは肉体の渇きで、もう一つは心の渇きです。

心の渇きを一言で言い表すならば、それは永遠の命そのものであられる神に対する渇きであると聖書は言っており、神との出会いこそは、人の心の渇きをいやす唯一の方法です。

そして、イエス・キリストは神に渇く人はわたしのところに来なさいと招いておられるのです。



「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネによる福音書4章13ー14節)



2012年7月27日金曜日

しるし

サマースクール中の聖書の話に真剣に耳を傾ける子どもの様子

サマースクールの間に、ヨハネによる福音書に記されている、「七つの奇跡(しるし)」について学びました。山の麓では、冬に雪が降った後、色々な動物が通った足跡を見つけることができます。動物に詳しい人なら、その足跡を見れば、何が通ったのかが分かります。

それと同じように、ヨハネによる福音書に記されているイエスが行われた奇跡(これをしるしと言っています)を見れば、イエスというお方が誰であるのかを知ることができるのです。

イエスの弟子のヨハネは、その福音書を締めくくるにあたり、この奇跡(しるし)を記録した目的をはっきりと告げています。

このしるしを見た「あなたがたが、イエスは神の子、メシアであることを信じるためであり、そう信じて、イエスの名により、命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)

 

明日は、栄光クリニック2階(衛川ホール・旧教会)で午後1時から家庭礼拝が行われます。

ご近所の方々が多く集われるアットホームな集いです。ぜひお出かけください。

 

2012年7月26日木曜日

サマースクール

 

東京の品川にある栄光教会と合同のサマースクールが祝福のうちに終わりました。

小学生7名、中学生1名、幼児2名という小さな集いでしたが、幼子を愛される主イエス様の愛が豊かに注がれる感謝な合宿になりました。

子どもたち一人ひとりがイエス様を信じて祈る姿は、感動的でした。

数名の子どもがイエス様をとても身近に感じ、神様が本当に生きておられること。自分たちと出会ってくださるお方であることを実感したようでした。今後の彼らの歩みがますます祝福されたものとなりますよう、続けて祈りたいと思います。

暑い中、食事の準備などのご奉仕をしてくださった、婦人会の皆様、本当にありがとうございました。とっても美味しかったです。また、このサマースクールのためにお祈りしてくださいましたすべての方々に心から感謝いたします。

 

 

2012年7月23日月曜日

エリック・リデル

 

昨日は、月に二回のハッピーサンデーがありました。

近づいているロンドンオリンピックにちなんで、エリック・リデルの紙芝居を見ました。

1924年にパリで開かれたオリンピックに出場したリデルは、宣教師の子として生まれた敬虔なクリスチャンでした。100m走のイギリス代表に選ばれた彼は、神の栄光のために走っていました。

ところが、彼の出場する種目が日曜日だったため、彼は、オリンピックよりも、教会に行って礼拝することを選んだのです。

彼のオリンピックは、終わってしまったように思われましたが、彼の同僚が自分の400m走の出場権を彼に譲ってくれたのでした。

そこで、彼は見事に金メダルを獲得したのです。しかも当時の世界新記録でです。以前世界新記録の過去の記録を調べて見ましたら、確かに彼の名が記されていました。

その後、彼は、宣教師として生まれ故郷である中国に渡り、43歳という若さでこの世を去るその時まで、神の愛を人々に伝えるために走り続けたのでした。短い人生ではあったかもしれませんが、陸上競技だけではなく、その人生においても金メダルを獲得したのだと思います。

「あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(Ⅰコリント9:24)

 

明日から、東京品川区にある栄光教会の子どもたちと一緒のサマースクールが始まります。今日はその準備のための買い出しに、家族で出かけました。長男と次男も手伝ってくれ、大助かりでした。

サマースクールが祝福されますように。

 

2012年7月22日日曜日

信仰 銀行 健康

人間に必要なものを三つあげるとすれば、「信仰」「銀行」「健康」だということを、ある有名な牧師が語られたそうです。

でも、銀行が一番になっても、健康が一番になっても、十分ではなく、信仰が一番大切なのだとおしえられました。

確かにどんなに仕事を頑張ってお金持ちになっても、またどんなに健康に気をつけていても、心の中に満足がなく、平安がなかったならば、本当の幸せを感じることができないでしょう。

わたしたちは何のために生きるのでしょうか。

イエス・キリストは言われます。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(ヨハネ6:27)

 

 

2012年7月21日土曜日

夏休み始まる

今日から地域の小中学校は夏休み。

明日は夏休み最初の行事になります子どもたちのハッピーサンデーがあります。

午後2:30からです。親子連れも大歓迎です。ぜひお出かけください。

 

昨日は、おゆみ野で家庭集会がありました。久しぶりに参加してくださる方もあり、嬉しかったです。約5年ぶりになります。

また、85歳になられる婦人伝道師の先生が、この地域の近くの施設に移られたため、初めてこちらの家庭集会に出席してくださいました。長い年月をかけて培ってこられた深い信仰の話しを、時の経つのも忘れて聞き入っていました。信仰の世界は限りないなと、改めてその深さに感嘆させられました。

さあ、明日は礼拝です。この信仰の深みに向けて飛び込んで行きましょう!

 

2012年7月18日水曜日

御名を知る人

「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」(詩編9:11)

ある聖書学の学者が、「御名を知ったものだけが救われる」という言葉を残しました。

ここでいう「知る」という言葉は、知識的に知ることではなくて、体験的に知ることを言っているようです。人から聞いたものの受け売りでは、説得力もないけれど、自分で経験してきたことは事実ですから力がある、というのと似ています。

イエス・キリストも言われました。「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している」(ヨハネ4:22)と。

「わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる。」(イザヤ52:6)

もっともっと神様を知ることができますように。


2012年7月17日火曜日

見えないということ

 

「 世の中すべてが嫌になる。もう自分の身を投げ出したくなる。」

視力を失いつつある一人の80代の男性の言葉です。

見えないということが、人間にとってどれほど辛いものであるのか、物語っているのではないでしょうか。

さて、今年の夏は、中高生の合宿が行われます。そこで語られていくメッセージの主題は「見えるようになれ」で、エリコの盲人バルティマイに語られた、主イエスの力強い言葉です。

 
この夏は、メッセージと共に、このテーマについて考えてみたいと思います。

 

2012年7月10日火曜日

人生を灯す聖書の言葉

 

佐倉地区で母親の集いが行われました。

出席者は、幼児を抱えながらの子育て真っ最中のお母さんから、中高生のお母さんまで様々。

家内(伝道師 三児の母です)が担当していますが、人生を灯す聖書の言葉というテーマでお話をしました。

光がないということは、本当に先が見えず、不安を覚えます。

自分の人生においても、子どもたちのことを考えても、これからのことは誰もわかりません。まるで暗闇の中にいるようです。わたしたちの周りの世界も暗闇といえる状態です。

でも、聖書の言葉は、一人ひとりの歩みを灯すともしびだと言っています。この聖書の言葉に耳を傾けてみませんか?

「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(詩編119:105)

 

2012年7月9日月曜日

充電

東京周辺の教会の先生方の集まりがありました。

牧師・伝道師のことを聖職者といっています。聖職者の働きが本当に実りのあるものとなるために、どうしても内面の充実 ー これを今回は充電と呼びました ー が必要であることを学びました。

自分自身の奉仕を振り返り、その重要さが身にしみて感じられました。

このような学びのチャンスを与えてくださる神様に心から感謝しました。

 

2012年7月5日木曜日

キリスト教入門講座

今日は、健康診断に行ってきました。機械もメンテナンスが必要なように、人間もメンテナンスが必要です。体についてはお医者さんにお任せできるかもしれませんが、心の問題は神様のところに持っていかなければ、どうにもなりません。

そういうわけで、 明日は、月に一度の入門講座の日です。

聖書のみ言葉に耳を傾けながら、心のメンテナンスを行いたいと思います。

 

 

2012年6月30日土曜日

7月のオープン礼拝

7月8日のオープン礼拝の案内をご近所にお届けしています。

皆様のお出でを心からお待ちしています。

明日も通常の礼拝を行っています。自分では負いきれない重荷を神様に預けるために、多くの人々が集って来られます。

ただ神様のもとへ・・・。

 

2012年6月25日月曜日

壮年男子修養会

昨日は、千葉シャローム教会に関東地区の教会の壮年男子(教会では、イエスの父の名にちなんで ヨセフ会と言っています)の方々20名近くが集まって、修養会が行われました。礼拝は、そのオープニングの集会に合流する形でもたれました。

社会の荒波の中を戦いながら歩んできた人生経験豊富なヨセフの方々の体験談、メッセージは実に厚みがあり、深い感銘を受けました。

午後には、小さなグループに分かれてディスカッションが行われ、日ごろの自分たちの生活について、信仰生活の持ち方、将来のビジョンなどを熱く語り合いました。

共に参加させていただいて、企業戦士ならぬ人々の救いのために働くヨセフの方々の姿から大きな励ましをもらいました。また同時にヨセフの方々のこれからの歩みがさらに強められるようにとの祈りが湧き上がってきました。

礼拝で語られたイエス・キリストの言葉が心に響きます。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)




2012年6月20日水曜日

分岐点



祈祷会で語られたみ言葉の一つをご紹介します。

ヨハネの黙示録2章4,5節

:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

:5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。


千葉シャローム教会は新会堂が建って3年目を迎えます。また、稲毛区で集会を始めて、14年が経ちました。いよいよ神様の人類に対する愛に満たされて、ご奉仕をさせていただきたいと願っていますが、その前に自分たちの心の点検を求めておられることを知りました。

かつて、イギリスのウェールズという地方で、リバイバルが起こりました。そのきっかけは、4,5名の婦人たちの祈りであったと伝えられています。彼女たちが教会のリバイバルを祈り始めた時、その心が神様によって照らされ、自分たちがイエス様を愛していなかったということを知らされました。

「イエス様、わたしにはあなたへの愛が欠如していました。主よあわれんでください。」との祈りから始まり、ついに「イエス様、あなたをお愛しいたします」と心からの祈りへと変えられて行ったのです。

この祈りは、教会のすべての人々を巻き込み、教会の中に神への愛が満ち溢れ、ついにいウェールズのリバイバルへと発展し、多くの人々が救いを経験したのでした。

もし、初めの愛から離れていることに気が付いたなら、分岐点に戻ることです。どこから落ちていったのか、どこから逸れていったのか。神様との出会いの原点、救いの原点、すなわち神の愛に帰ることです。

今日も、すべての人が神様の愛の懐に帰り、そこにとどまり続けることができるように祈ります。

 

2012年6月14日木曜日

本当の自由

 

ブレーズ・パスカルは「パンセ」という本の中で、 自己愛についてこう記しています。

「自己愛の本質とは、自分しか愛さず、自分しか尊敬しないこと。しかし、次のような場合、人はどうして良いかわからなくなる。

愛してやまない自分が実は欠点だらけであることに気付き、悲惨のどん底にあるのに、なす術がない場合である。

このような困惑の中におかれると、人間の中に最も不正で罪深い情念が芽生えてくる。自分の欠点を誰の目にも触れないよう、覆い隠そうとして、全力を尽くすのだ。」


まるで、裸の王様のようです。

人は自分の欠点をさらけ出すことを嫌うのです。

でも、もともとそういった自己愛に縛られていた人が、教会にきて神様と出会い、神の愛に触れた時、全く開放されたことをわたしは知っています。その方の言われた言葉が今でも心に残っています。「神様と出会って何が変わったか。それは自分の弱さ、自分の欠点をさらけ出すことができるようになったことです」と。

本当の自由ってこういうことではないでしょうか。

 

 

2012年6月12日火曜日

ハッピーサンデー

日曜日の午後には、ハッピーサンデーが行われました。

新しいお友達も加わって、楽しいひと時を過ごしました。

お話しは、アンネの物語を紙芝居で見ました。

今年はアンネのバラが日本に届けられて40年の記念の年です。

バラに託されたアンネ・フランクの平和への思いを、子どもたちにも伝えました。

「もし神様が私を長生きさせてくださるなら、私はつまらない人生で終わりたくありません。私は世界と人類のために働きます。」

子どもたちはどう受け止めてくれたでしょうか?

最初から大きなことはできないかもしれません。まずは友達の間で、兄弟の間で、家族の中で、平和が実現しますように。

ちなみに、今日はアンネ・フランクの誕生日です。

2012年6月9日土曜日

6月のオープン礼拝



明日は父の日には1週間早いですが、お父さんたちに感謝を込めて、お祈りをおささげしたいと思います。

「神のふところに帰る」というテーマです。

変わらぬ愛で、あなたを待ち続ける方がおられます。

どなたも、ありのままの姿で、何も飾らずおいでいただければと思います。

何も持たず、普段着でおいでください。

 

2012年6月7日木曜日

重荷を下ろす

ある青年がリアカーを引いて道を歩いていると、重たい荷物を背負った老婦人がよろめきながら歩いているのを見かけました。
気の毒なので、青年は声をかけ、リアカーに乗るように勧めます。

老婦人は申し訳なさそうにリアカーに乗り込みました。

青年は老婦人を乗せながら、リアカーを引いています。しばらくすると、後ろに乗っている婦人が苦しそうな息をしているのに気づきました。足を止め後ろを振り返ると、何と彼女は荷物を背負ったまま乗っているではありませんか。

わたしたちもしばしば同じことをしています。

イエス・キリストはわたしたちのすべての重荷、悲しみ、痛みを担ってくださっていると分かっていながら、なおも自分の負っている荷物を下ろそうとしないのです。

リアカーに乗って、荷物を下ろすだけで良かったのに、なお負い続けて苦しんでいる。

今日も、イエスの言葉が響いてきます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)




 

2012年6月5日火曜日

バラにいやされ

















近所の方が、話してくださいました。「バラを見てますよ。癒されますよね~。」

その言葉を聞いて、見ていてくださる方がおられることを知り、こちらもなんだか癒される思いがします。アンネ、そしてアンネの父オットー・フランク氏も喜んでおられることでしょう。

そういえば、この間も、車で通りかかった方が、写真を取っておられました。

今年はアンネのバラが日本に届けられて40年の記念の年です。今年最初の花も無事きれいに咲きました。あと1週間くらいは咲いてくれると思います。ぜひご覧ください。




2012年6月4日月曜日

休息






















ギリシャのことわざに、常にぴんと張っている弓は、やがてまっすぐに飛ばなくなるというのがあるそうです。写真は和風ですが(笑)

というわけで、今日は休息の日にあてました。今日の自分にとっての休息は、寝ることではなくて体を動かすことかと思いました。

午前は、軽くスポーツをし汗を流し、午後は教会の庭の草刈りをしました。(草刈は作業ですが、わたしにとってはとてもリフレッシュになるのです。よい趣味だと思っています。)

夕方くらいから、仕事が始まる感じです。

さて、次の日曜日はオープン礼拝となっています。
心の休息のために、日曜日はぜひ教会でお過ごしください!




2012年6月3日日曜日

ペンテコステ

今日は、東京世田谷区にあるソフィア教会で、ペンテコステ(聖霊降臨日)の聖会が行われました。

鳥取県・米子教会の牧師が午前と午後の2回の聖会のメッセージを語ってくださいました。

約2000千年前に弟子たちの心に注がれた聖霊は、神の霊であり、神ご自身です。そのとき、無力な、罪深い、ふがいない弟子たちは聖霊の力、神の力によって新しい人に変えられ、その時代をキリストのように歩み始めたのでした。そしてキリストが行われたのと同じ出来事が彼らにおいて起こりました。キリストが彼らの内に住み、歩み始められたからです。

どちらの聖会でも、今も働かれる聖霊がみ言葉と共に迫ってきて、篤い信仰が心のうちにあふれました。

午前と午後の司会の先生が語られた言葉も印象的でした。

自分が聖霊を受けたときの感動は忘れられないこと、また最近ある教会で、98歳になられた信徒の方が亡くなられたことが語られました。その方が、亡くなられる前に、「聖霊を受け、キリスト様が心に来てくださったことがどんなにすばらしかったことか、本当に感謝なことです」と何度も語られたという。

その人生の最後において、そういう感謝の言葉を繰り返すことができるとは。聖霊とはなんとすばらしいお方でしょうか。

ペンテコステの祈りをこれからもささげたい。「聖霊、聖霊、来てください。」



2012年6月1日金曜日

安息日、このかけがえのない日






















今日は、午前中はキリスト教入門講座がありました。

モーセの十戒シリーズを学びはじめて今日で4回目。
一つ一つの掟(戒め)を丁寧に学んでいます。

第4の戒めは安息日に関することです。

人間のために安息を与えてくださった神様の恵み深い律法です。

イエス・キリストが十字架の死より復活されたときから、クリスチャンにとってイエスの復活された日曜日がもっとも大切な日となり、主の日といわれるようになりました。やがて、この主の日が安息日に変わるようになってきました。そして、主の日を礼拝の日とし、その日に安息する

教会では日曜礼拝のことを聖日礼拝とか、主日礼拝とか言います。
今回学んでみてこれからは主日礼拝としたらいいのではないかと思わされています。

クリスチャンにとっては主の日は安息の日です。
礼拝に向かい、そこで神と出会い、神を礼拝し、魂の安息を経験する。そこから新しい1週間を生きていく力をいただく何にも変えがたい日です。
礼拝とは英語で Worship といいますが、これは Worth-ship からなっていて、とても価値のあることなのです。

参加してくださった信徒の方は、日曜日の礼拝は喜びであり、1週間が始まると次の礼拝を楽しみに、期待しながら生活していることに気がつきます、と語っておられました。

こうなってくると、1週間の生活もまた生き生きとしたものになっていくのではないでしょうか。

明後日は、東京で東京周辺の教会が合同で特別聖会が行われますので、多くの方はそちらに参加されると思います。

東京の聖会に出席できない方のために、千葉シャローム教会では、いつもより30分早く10:00から短い礼拝が行われます。

いずこにおいても、魂の安息を皆さんが経験してくださいますように。



2012年5月30日水曜日

一粒の麦


「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12:24)

今日の祈祷会では、聖霊を受け、聖霊に満たされた一人の信徒ステファノが殉教した箇所にも触れました。

イエスを信じようとしない人達の迫害を受け、石を投げつけられ、ついに殺されてしまいました。

これは悲しむべき出来事ではありましたが、彼がキリストのゆえに、一粒の麦となって殉教したそのとき、彼の姿からは真実の愛があふれ出たのです。

そして、その姿に心打たれ、自らの誤りを悟った一人の青年がいました。あの迫害者サウロです。彼は、それからまもなく復活されたイエス・キリストとの出会いを通して偉大な使徒へと変貌していきます。使徒パウロの誕生です。

ステファノの死を通じて、偉大な使徒パウロが誕生し、み言葉のように多くの実を結びました。

生きるか死ぬかという問題よりも、大切なことはその人の中にあるものが真実の愛かどうかということが問われているのだと思います。わたしたちは自分の内側から何をあらわしているでしょうか。

「ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」(使徒6:15)


2012年5月24日木曜日

幸せのハードル
















1年経って、震災はある程度終わったのでしょう?

答え「全然」

もう慣れたでしょう?

答え「全然」

原発に一番近い教会の牧師・佐藤彰先生のことばが紹介されていました。

教会の信徒の皆さん60名と奥多摩で避難生活を強いられました。

人の記憶は長くは持たず、震災は過去の出来事と思ってしまうかも知れませんが、まだまだ続いているのです。

言葉で表せない辛いことがたくさんあったけれども、いいこともあったと言われました。

「この一年で数えきれないほど涙を流したが、幸せのハードルがずいぶん下がり、小さなことに感動することが多かった」と。

「生きていた」と言っては泣き、「会えた」と言っては泣き、暖かい食事に泣き、暖かい布団に泣き、人々の暖かい心に泣き、・・・。


幸せとは何なのか、とても考えされされました。


2012年5月23日水曜日

弱った手に力を
















今日の祈祷会では、イザヤ書35章3節、4節のみ言葉を学びました。

  「弱った手に力を込め
   よろめく膝を強くせよ。
   心おののく人々に言え。
   『雄々しくあれ、恐れるな。
   見よ、あなたたちの神を。
   敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
   神は来て、あなたたちを救われる。』」

「弱った手」とは、麻痺してしまって握ることができない手のことを言っています。
神の約束、神の言葉を握ることができず、約束の実現のために祈り求め、自分のものとすることができないで、途中であきらめてしまう。そういうことを続けていることを意味します。

神様は、そのような人にも、力を込めなさい、と力づけてくださいます。

「よろめく膝」の膝とは、祈りの姿勢を言います。それがよろめいているのですから、祈りを途中であきらめてやめてしまっていることです。

神様は、その祈りの膝を強くせよと命じられます。
約束の実現を見るまで、得るまで、祈りぬきなさい、と。

自分の現実、現状がどのように厳しくあっても、神様を見上げ、神様を見つめ、神の約束を信じて、祈りぬく時、必ず、神は来て、あなたたちを救われる。神様の救いが教会でも、家庭でも、わたしたちのおかれたところで実現する。

信仰の手を挙げて、祈りました!




2012年5月21日月曜日

原点に立つ

ネットで見つけた画像。千葉ではこんな感じで見えました。


















今日は朝から金環日食を見るために長男の通う中学校に行きました。
金環日食観測会があったためです。

ちょうど一番いい時間に雲が厚くなり、雲間から見えるわずかな時間だけ見ることができました。
雲が多かった分、観測用のメガネではほとんど見えませんでしたが、短い時間だけ肉眼でも見えました。宇宙を感じる不思議なひと時でした。

昨日の礼拝では、自分の神様との出会いの体験を短く証させていただきました。

実際、イエス・キリストを信じ、心に迎えたのは、小学生の時です。ただ、その時の印象はわたしの場合はあまり鮮明ではありませんでした。その後、中学校、高校、大学と神様の働きを肌で感じるできごとにたくさん出会いました。

でも、一番印象に残っている、そしてまた自分の歩みを支えるものとなった神との出会いは、神学院に行っているときでした。

主イエス・キリストが「我は主なり」との御名によって、わたしの心に現存し、わたしと一つとなってくださったことを実感した瞬間でした。神様の知恵、義、聖、あがない、力、命、愛がわたしの前進を駆け巡るようなできごとでした。

「生きているのはもはや、わたしではありません。キリストが、わたしの内に生きておられるのです」と言ったパウロの体験はこれなのだと分かりました。

そして、これがわたしの救いの原点となり、今の自分を支えるものとなっていることは、神の恵み、愛に感謝せずにはおられません。

自分の救いの原点に立つ、ということの大切さを改めて教えられました。



2012年5月18日金曜日

栄光の希望






















今日は、おゆみ野の家庭集会に行ってきました。

「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」(コロサイ1:27b)とのみ言葉から、イエスが神殿を清められた出来事を学びました。

このコロサイのみ言葉を語ったのは、パウロです。

彼はまた、わたしたちの心こそは神殿だと語っています。

神殿とは、神様が現存してくださっている場所のことで、もし神殿に神様がおられなければ、そこはもはや神殿としての働きをすることはできません。

パウロ自身も、最初は神様と言えば、遠いみ空のかなたに仰いでいました。そのため、彼と言う神殿は本来の働きをすることができなかったのだと思います。

けれども、彼が十字架の死より復活された生けるキリストと出会い、キリストが御名によって彼の心に現存してくださったとき、彼は新しくされ、彼を通して神と出会う人々が次々と起こるようになったのです。彼は生ける真の神殿とされたのでした。

彼は自分自身の体験を力強く証しするのです。わたしの内におられるキリストこそは、栄光の希望だと。

わたしたちにも、この栄光の希望を与えるために、パウロの心の内においでになられた主イエスは、今もわたしたちの心の神殿にお入りくださいます。 我は主なり!


家庭集会の後は、山武市にお住まいの老先生宅を訪問しました。1年半ほど前にご病気をされて以来ご自宅で静養しておられるため、時々お尋ねします。

わたしたちの群れにおいては、初期の先生で、お体は本調子ではないものの、お会いするたびごとに信仰の息吹を吹き込んでいただき、燃やされます。これこそ、生ける真の神殿ですね。









2012年5月17日木曜日

Souvenir d'Anne Frank

















教会のアンネのバラが咲き始めました。

1971年4月に、当教団の合唱団のイスラエルでのコンサート旅行中、偶然アンネの父、オットー・フランク氏と出会いました。その出会いをきっかけに、オットー氏と交流を深め、アンネの理想と理念を共有するわたしたちへの友情のしるしとして、「アンネ・フランクの形見」 ~ Souvenir d'Anne Frank ~ と名付けられたバラの苗を送ってくださいました。1972年のクリスマスのことでした。

今年は、日本に「アンネのバラ」が届けられて40年。今や平和のシンボルとして日本全土に咲き香っています。

今朝、最初の一輪が花を咲かせました。しばらく咲き続けますので、ぜひ、みなさん、おいでになって、アンネの思いの詰まったバラの花をご覧ください。







2012年5月16日水曜日

キリストと同じように

祈祷会では、ヨハネによる福音書20章21節、22節を中心に学びました。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

クリスチャンの使命は、神がキリストをこの世にお遣わしになったのと同じだと言っています。

ただ、それには一つの条件がありました。それは「聖霊を受ける」ということでした。

「せいれい」と言うと、たいていの方はひょっとすると「精霊」を思い浮かべるかもしれません。
「精霊」は、いわゆるわたしたちの周りにいるとされている諸々の霊のことを言っています。ところが「聖霊」は、神様より出るところの霊で、神とイエス・キリストと一体です。だから聖霊は神です。

だから、聖霊を受けて初めて、イエス・キリストと同じ使命を果たすことができるのです。

クリスチャンは、キリストの働きをこの地上で実現するために、「聖霊来てください」と祈ります。聖霊は、キリストのように生きる力を与えてくださるからです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)


2012年5月15日火曜日

種には命が
















写真はハスの実(種です)

種には命が宿っています。神の種、神の御名にも神の命が宿っています。
聖書は主の御名は、神ご自身の実体と言っています。

さて、この神の御名が、人の心に蒔かれた時、その人は神様ご自身を心に持つので、神様の性質をもつようになります。

教会に通われる、ある一人の婦人は、かつてご主人が病に倒れ、先の見えない暗闇の中でもがいていました。幼い二人の子どもを残して死のうとも考えましたけれども、死に切れません。

そんな時、親戚の方から、主の御名を呼ぶならば神と出会い、その心に神ご自身を持つことができることを聞き、ある集会に出席し、口を開き御名を呼び始めたその時、ちょうど畑に種が蒔かれるように、彼女の心に「我は主なり」との神の種、主の御名が蒔かれたのです。

その瞬間に、彼女の抱えていた苦しみ、悲しみ、不安はまるで何もなかったように消し去られ、その心に神様の性質である、愛、喜び、平安、感謝、そして命が力強く芽吹きました。

その時から彼女は別人のように変えられ、神の命に生きる人生を歩み始めました。

人の心を住まいとして歩まれるキリストが彼女の内から歩み始めた時、彼女を通して多くの人が彼女と同じ体験をしていきました。ただ、御名を呼ぶだけで、救いを経験していったのです。

その恵み、祝福は今も変わらず、あふれ続けています。

先日のオープン礼拝に来られた一人の方は、彼女の心からあふれるキリストの品性に魅せられて教会においでになりました。

そして、その秘訣を良く理解して帰って行かれました。

一つの種が芽を出し花を咲かせ、多くの実を結ぶ、そんな素晴らしい光景が見えてきそうです!




2012年5月14日月曜日

神の種
















昨日のオープン礼拝ではこんなお話しをしました。

千葉市の花にもなっている大賀ハスは、もうあとひと月もすると千葉公園で咲き始めます。

このハスは、今から61年前、大賀博士によって発掘された古代ハスの種が発芽したもので、大賀ハスという名前が付けられたことで有名です。

何でも2000年前の種と言うから驚きです。周りの人たちは、そんなに古い種が生きているとはだれも考えませんでしたが、博士はその種の中に宿っている命を信じていたのでしょう。ついに種は発芽し、花を咲かせたのでした。

聖書には神の種という言葉があります。

神の種は、神の命が宿っている神の言葉である「御名」のことです。

花の種にはその花の命が宿っていて、たとえば朝顔の種を蒔けば朝顔の花が咲きます。

同じように人が主の御名を呼んで、神の種が人の心に蒔かれると、その人は神のように、キリストのように変えられ、愛と喜び、平安、感謝という花を咲かせ、豊かな人生を与えてくださる、と聖書は教えています。

主の御名、それは「わたしは主である(文語では、我は主なり)」。

人が御名を呼び求めた時、どんなことが起こったのでしょうか?
それは明日、証しさせてもらいます。


今日は、東京の世田谷にある教会で、夏のジュニア・キャンプのためのスタッフ会が行われました。中学生のためのキャンプの大まかなプログラムを決めていきました。今年も若い人たちの成長のために思い切って色んな事に挑戦してきたいです!







2012年5月11日金曜日

キリスト教入門講座

今日は、月に一度の入門講座でした。入門と言いつつ、若干難しいテーマになってしまいました。

今は、映画でも有名となっている、モーセの十戒を学んでいます。

今日は、その3回目、三つ目の戒め(掟)を学びました。

出エジプト記20章7節
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」

「主の名」を「みだりに唱える」ことを禁止した掟です。

「みだりに」という言葉の意味は、一言でいえば「実体を伴わない」ということです。
実質を伴わず、むなしい、偽りの、取るに足りないという状態で神様の名を唱えることを禁止しているのです。

そこで、神様の名(御名と言っています)をもっと知るならば、みだりに唱えることはないのではないかと思わされ、神の名について学びました。

結論としては、神様の名は、御名「我は主なり」は、神様の存在を現わしている名です。
「我は主なり」という御名は、神の実体、神の命、神そのものです。

ですから、御名を唱える、御名を呼ぶということは、神様ご自身を呼び、神様ご自身を崇めることです。そのことが分かってきたら、御名の唱え方はきっと変わっていくと思います。何の気なしに、みだりに唱えることはなくなりますね。

参加した方が、「次からの礼拝や祈祷会での神様の御名の呼び方が変わると思います」と感想を話してくださいました。

信仰を込めて、崇めつつ、御名を唱えましょう。「我は主なり!」







2012年5月10日木曜日

これでいいのだ!























朝日新聞のデジタル版のニュースにこんな記事が掲載されていました。

宮崎市の市民団体がつくったコースターについての記事です。

漫画「天才バカボン」のパパのように、「これでいいのだ!」と楽天的にいこうと、少し笑えて前向きになれる言葉をそえた5種類が飲食店で使われているそうです。

一つを紹介しますと、

コースターの表面には「挨拶しても返事がない! 多分私は○○」と書いてあります。

皆さんだったら、続きをどうするでしょうか?

「多分私は嫌われている」とか「多分私は煙たい存在」とか「多分私は誰にも相手にされていない」とかついつい考えてしまうかも知れません。

このコースターの裏側は「多分私は 声が小さいのだ!」 となっています。いかがでしょうか。

どれもバカボンのパパがつぶやいているような調子で。ちょっと笑ってしまいます。

さて、神様は、わたしたちのありのままを、そのまま受け入れてくださいます。
神と出会い、神の愛に触れた時、自分の思い悩んでいたことが本当に小さかったことをしばしば思い知らされます。その時、本当の意味で「これでいいのだ!」と言うことができました。

神の愛に触れたその感動を歌った讃美歌をご紹介しましょう。


わが主をつたうる ことばもなし
我をばいだきて ささやくみこえは
「ものみなよし」「ものみなよし」




2012年5月9日水曜日

リバイバルはどこですか?

かつて英国のウェールズの田舎の町にリバイバルが起こりました。

リバイバルとは、信仰復興、イエス・キリストへの信仰に教会が燃え、再び元気を取り戻すことを言います。その結果、教会の中をイエス・キリストが巡り歩いてくださり、人々が救われ、病癒されということが次々と起こって行くのです。

リバイバルのうわさを聞きつけた人々は、ウェールズのリバイバルを見てこようと汽車に乗り、駅に着くと、その駅員に「リバイバルはどこでおこっているのですか?」と尋ねたときに、駅員が答えた言葉は有名です。

駅員は言いました。「リバイバルは、わたしのボタンの下でのです。わたしのハートの中。わたしの心の中でリバイバルは起こっているのです。」

気が付くと、どこかほかのところにリバイバルを求めていたのかも知れないと思わされました。

リバイバルはとこですか? それは、わたしの心の中で起こっています。

キリストへの愛と信仰が、心の内で燃え上がっていることができますように。


「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(ヨハネ21:15)

2012年5月8日火曜日

あれは主だ

















「イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに『あれは主だ』と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。」(ヨハネ21:5 口語訳)

イエスの言葉に従って、網を打つと、網が引き上げられない程の大漁となりました。
一晩中漁をして、魚一匹も獲れなかった彼らにとって、それは奇跡以外の何ものでもありませんでした。

弟子のヨハネは、このようなことができるのは、主イエス様以外にはないことを認め、叫んだのです。

「あれは主だ!」

教会でも、神様が行ってくださったのでないなら、考えられない奇跡的なことが起こります。
病が癒されること。自分の心をどうにもすることができなかった人の心が変えられ、新しい人生を歩み始める、といったことが起こります。

今年は、それが頻繁に起こることを願っています。いつでも、教会に来たならば「あれは主だ」と言うことのできる出来事がいつものように起こる。そんな教会でありたいです。



2012年5月7日月曜日

豊かに実を結ぶために


















復活されたイエス・キリストは弟子たちとガリラヤで会う約束をしてくださいました。弟子たちはガリラヤ湖でイエスを待ちますが、まだおいでになっていませんでしたので、彼らはその間に湖に漁に出かけます。

ところが、その日は何も獲れませんでした。あの日、彼らがイエスから弟子として招かれた時も、彼らは漁をしていましたが、魚一匹もとれなかったのです。

なぜでしょう?

どちらも、イエス不在のまま漁をしていたからです。

自分の経験、自分の力だけに頼っていたとき、何の獲物もなかったのです。

イエスは、言われました。

「わたしから離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5b)

特に、永遠に残る仕事、神様の事業においては、イエスを離れては何も実を結ぶことができないのです。

でも、この聖書の御言葉の前半には、豊かに実を結ぶ秘訣がはっきりと語られています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(同15:5a)と。

わたしたちは、その人生において、豊かに実を結んでいるでしょうか?