2012年3月30日金曜日

自立


今日は、八王子のエゼキエル教会で春のユースの集いが行われました。

新高校生から大学生卒業生までの若い人たちの集まりです。

今回集まってくれた人は、みんなクリスチャンの二世、三世とのことでした。親や祖父母の代からクリスチャンで、ある意味生まれた時から、いや生まれる前から教会に通っていた人たちです。

そういう人たちの集まりだったので、クリスチャンとして自分の足で立つ、ということについて考えるときを持つことができたことは良かったと思います。

振り返ってみると、わたしも中学生のころから、何度もイエス・キリストとの出会いを通して、自分と神様との関係を築かせていただいたと思います。今日まで、大小様々のあふれるばかりの恵みをいただいてきました。そしてその恵みに応えて、神様に恩返しをしたい、受けた愛に応えたいという思いで牧師という道を歩んでいます。

今日集まってくれた若い人たちの歩む道が、神様によって祝福されたものとなりますよう祈ります。

また、この機会を与えてくださった神様に感謝をささげます。



2012年3月29日木曜日

小さな存在



先日のニュースで、有名な映画監督、ジェームズ・キャメロン監督が世界で最も深いマリアナ海溝への単独到達に成功したと報じられていました。

キャメロン監督は、帰還した後に記者と電話会談を行い、海底の様子を「太陽の光も届かず、温かさもない場所だった」と表現。「全ての人間から切り離され、完全な孤独を感じた。いかに自分が小さな存在かに気付かされた」と語ったそうです。

「いかに自分が小さな存在か」・・・ 完全な孤独を味わって初めて知ることができたのだということ。

聖書は、自分が小さなとるに足りない存在だと知らされることを「心の貧しい人」と言い、それは幸いなことだと言っています。自分が小さな存在であることを知って、初めて神様の偉大さを知ることができるからであり、神様に頼らなければ生きていくことができないことを知ることができるからです。

天国はそのような人のものなのです。

さすがに、監督のように、マリアナ海溝へは行かれないと思いますが、自分の心の深みに潜り込んで自分がどんなものなのかを静かに考えることはできるかも知れません。


「心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章3節)



2012年3月28日水曜日

門を開いておいた

祈祷会では、黙示録3章7節~8節、11節~13節から学びました。

:7 フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。
:8 「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。

:11 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。
:12 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
:13 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』

フィラデルフィアとは兄弟愛という意味です。当時のフィラデルフィアの教会は、決して大きなものではありませんでしたが、小さくても純粋で、愛に満ちた教会でした。
また、教会を通じて救われる人が多く起こされるように励んでいた教会でもあります。

わたしたちの目指したい教会のモデルでもあります。

フィラデルフィアの教会に対して、主イエスは「わたしはあなたの前に門を開いておいた」と天国の門、救いの門、リバイバルの門を開いてくださったのです。

たとえ小さくても、力が弱くても、主の言葉を守り、主の名を尊び、崇めていくそのところに救いの門が開かれていくことを学び、希望を与えられました。


2012年3月27日火曜日

天国の扉を開く鍵


今日は、東京の教会で、東京、神奈川、千葉の7つの教会から45名の子供たちが集まって特別な集会が行われました。

聖書の話を聞き、讃美歌を歌い、交流会も持ちました。

イエス様を信じている(あるいは信じたいと思っている)という同じ思いをもっているお友達がこんなにたくさんいることはなんと素晴らしいことでしょう!

集会では、「純金の信仰をもって」というテーマで進められました。
これを分かりやすく言うと、「天国の扉を開く鍵」となると思います。

それは、イエスに対する信仰です。イエスはすべての人がこの信仰を与えられて天国の扉を開くことを望みつつ、今なおわたしたちに尋ねておられます。今日も、子供たちに尋ねておられました。

「『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。』シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです。」(マタイ16・15,16)

「イエス様は神様です。イエス様は救い主様です。」

これこそが、イエスが願われた信仰。純金の信仰。天国を開く鍵です。

子供たちも、心から応えているようでした。「あなたこそ、生ける神の子キリストです!」

天国の扉が子供たちの前に開かれていたことを信じます。





2012年3月26日月曜日

このことを信じるか


礼拝のメッセージを深めてみましょう。

死んだラザロのもとにイエスがおいでになられました。

それを迎えたラザロの姉妹マルタはこう言いました。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願になることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(ヨハネ11・21-22)

マルタはイエスと神とを別に考えています。
イエスはご自分に対して、「わたしを見た者は、父(神)を見たのだ」「わたしと父(神)とは一つである」と言われます。イエスはご自分は神であると言っておられるのです。

また、マルタは「わたしは今でも承知しています」と言いました。
そこには、生きた信仰ではなく、冷たい頭だけの理解、知的認識だけしかありません。

そこで、イエスは言われました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11・25,26)

ここで繰り返し語られるのは、「信じる者」「信じる者」「信じるか」です。

キリスト教を理解してもそれは十分ではない。聖書をよく読み理解してもそれで十分なのではない。必要なのは、信じることであり、生ける信仰です。これこそがイエスの神としての御力を引き出す秘訣だということを教えています。

明日は、東京世田谷区にあるソフィア教会で、東京、神奈川、千葉の子供たちのための合同の集会があります。子供たちの上に、神様の豊かな祝福がありますよう、「信じて」祈ります。



2012年3月25日日曜日

ラザロの復活


礼拝では、ラザロの復活を学びました。

ヨハネによる福音書では、一番最後に行われた奇跡です。
このラザロの復活を通して、イエスはご自分が死にさえも勝利することのできる命の主であることを知らせようとされたのでした。(写真は、ラザロの墓の跡らしい)

ヨハネによる福音書11章38節~44節

:38 墓は洞穴で、石でふさがれていた。
:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。


「我は復活(よみがえり)なり、命なり」


2012年3月24日土曜日

ここに愛がある


午後に栄光クリニック2F(衛川ホール)で家庭礼拝がありました。

そこで歌った讃美歌の1節をご紹介します。


カルバリ山の 十字架のうえに
イェスは貴き ちしおを流し
罪人のため みうせたまえり
十字架の血潮は わがためなり。

あぁ 十字架 カルバリの
十字架の血潮は わがためなり。


「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(ヨハネの手紙一 3・16前半)

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一 4・10)


「イエス・キリストの十字架はわたしのためだった・・・」

イエス・キリストの十字架の話をしたときにある方は、「本当に申し訳ないことです」と言われました。神の愛に気がつかされ、同時に自分の罪深さに気がつかされたからだと思います。

でも、救いはそこからです。

イエスは語られます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書 11・28)

十字架の信じて、「神は愛なり」と御名を呼びつつイエスに近づこう。
ここに赦しがある。ここに救いがある。ここに愛がある!

「神は愛なり!」






2012年3月23日金曜日

失敗は隠さず


少し前に、聖書は失敗者の書ということを書きました。

今日は、その続きです。中野雄一郎という牧師は、「聖書力」という本の中でこう記しています。

「多くの人は失敗を隠します。しかし、自分の失敗を笑える人、話せる人は強い。」

問題があるにも関わらず、「ウチに問題なんかはありません」「子どもは大丈夫です」「夫婦の仲はうまくいっています」と言いながら我慢に我慢を重ねて、誰にも言わず、一生懸命隠す。そうこうしているうちに問題はどんどん大きなものとなっていってしまう。限界を超えれば、爆発してしまう。

もっと早くに「うちは大変なんです」と口にできれば良かったのに、と思えることも少なくありません。

なかなか、わたしたちの社会や文化は、そういう問題を打ち明けることにあまり慣れていないようです。受け入れてもらえる自信もありません。うわさも怖い。

その点、教会は自分の問題や、悩みをオープンにできる場所ですし、それを受け入れる準備ができていると思います。

教会に通っている人たちもみんな悩みを抱え、問題を抱えながら生活しているからです。でも、それを打ち明けることができる。そして祈りあい、支えあうことができる。何にもまして、支えてくださる神様がおられることを知っている。これは強い!

おゆみ野で行われた家庭集会でも、食事をしながら信徒の皆さんと今日はそういう話をしていました。教会って本当に素晴らしいところだと思います。





2012年3月22日木曜日

生きるようになるため


2月22日からイースターの前までの40日間(日曜日は除く)、イエス・キリストの十字架の苦しみと死を思い、またイースター(復活祭)を待ち望む時を過ごします。キリスト教会では、「レント」(四旬節)と呼んでいます。

イエスの十字架の苦しみと死は誰のためだったのでしょうか。聖書は言っています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって愛を知りました。」(ヨハネの手紙一3・16)

それはわたしのためでした。そして、あなたのためでした。ここに愛があります。

ただわたしたちの代わりに死んだだけではありません。わたしたちに神の命を与え、生きるようにするためでした。

わたしたちの罪をイエス・キリストの十字架に明け渡し、罪に生きる古い私は十字架の上でキリストと共に死に、そしてキリストの復活と共に新しい命に生きるのです。その喜びの日、イースターを待ち望んでいるのです。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。」(ヨハネの手紙一4・9)

皆さん! 神は愛です!


2012年3月21日水曜日

わたしを行かせてください


祈祷会では、今年ロゴス神学院を卒業し、任地へと遣わされていった先生の証・卒業に向けての思いをDVDで見ました。

証を通して、先生よりあふれるキリストへの愛、人々への愛に触れ感動しました。
また、わたしが初めて任命を受け、任地へ赴いて行った時の思いが甦ってきました。

その後、「わたしを行かせてください」のメッセージを学びました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイによる福音書28章18節b)

この言葉は、イエス・キリストが「我は全能の神なり」と言うことのできる神であることを表しています。
その全能の神であられるキリストが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章20節a)と言ってくださるのです。

なんと心強いことでしょう。

このお方と共に、今年度、歩ませていただくことができますように。

イエス・キリストより先に行くのでもなく、遅れてついて行くのでもなく、主と共に。


「あなたのあとについて、(わたしを)行かせてください。
わたしたちは急いでまいりましょう。」(雅歌1章4節 口語訳)



2012年3月20日火曜日

失敗者の書


聖書に登場してくる人たちは、とても立派な人だと思われているかも知れません。

でも良く読んでみると、実に多くの失敗者が登場してくるのです。

最初の人間アダム、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ソロモン、サムソン、ペトロ・・・。

そういう意味で、キリスト教、あるいは聖書というのは、手ひどい失敗をした人ほど良く理解できるのかも知れません。

実は聖書とは、人はどのようにして失敗するか、そしてその失敗からどのようにして立ち上がるかの書物なのだと知るところから始まるのだと思います。

生きていて失敗なくして生きてきた人はおそらく一人もいないでしょう。ですから、どんな人にも共感できる人物が聖書の中にいると思います。時にはそういう見方で聖書を読んでみてはいかがでしょうか。


2012年3月19日月曜日

春のおとずれ


気がついたら、庭の雑草が急速に伸びていました。

今朝は、小学校を卒業して、春休みを満喫している?長男にも手伝ってもらって草引きをしました。花壇をみたら、チューリップの芽が顔を出していました。

春が来たのだなと、改めて実感しました。

今では巷でも見かけるようになった「イースター」という言葉を見かけるようになりました。
「春の訪れを祝うお祭り」ともされています。実際、英語のイースターはキリスト教の復活祭のことなのですが、それはあまり知られていないかもしれません。

復活祭、それはイエス・キリストが十字架の死より復活されたことを祝うお祭りです。
春になると、死んだような大地から命が萌え出すように、命の神であるキリストは死の中から復活されたのです。

4月8日(日)が今年のイースターになっています。

今日は、イースターの祝福を祈りながら、イースターのオープン礼拝のチラシの準備を進めています。




2012年3月18日日曜日

純金の燭台を目指して

礼拝では、京都の聖会のメッセージをビデオで見ました。


御言葉はこちらです。

出エジプト記25章31節-34節、36節

:31 純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。
:32 六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける。
:33 一本の支柱には三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付け、もう一本の支柱にも三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。燭台から分かれて出ている六本の支柱を同じように作る。
:34 燭台の主柱には四つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。・・・
:36 これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。

エレミヤ書 1章11節‐12節
:11 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンドの枝が見えます。」
:12 主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。」

最後の言葉を文語約聖書で紹介します。「われ速やかにわが言(ことば)をなさんとすればなり。」

純金の燭台の形や造り方からその中に隠されている深い意味を学びました。


2012年3月16日金曜日

卒業式


今日は、教会のある地区の小学校の卒業式でした。

私事ですが、長男も無事に卒業することができました。最初の子だけに、すべてが初めての経験で、戸惑いや、不安もありました。多くの方々のお力添えにより、またそれだけではなく神様のお支えによって一つ一つの課題を乗り越えさせていただきながら、親子共々ここまで成長することができ、心からの感謝があふれています。

さて、こちらも私事ですが、家内が今年度はPTAの会長を務めさせていただきました。まだ仕事は残っているものの、こちらも皆様のお支えにより、なんとかやってこられたように思います。

卒業式では先生方、保護者の方々、地域の方々への感謝をこめて、また卒業していく子どもたちの新しい門出を祝して挨拶させていただきました。今日は記念ということで、少し紹介させてもらいます。

「・・・・・・
6年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。・・・6年間で心も体も大きく成長し、この佳き日を迎えている皆さんの姿を前にし、感激で胸がいっぱいです。

さて、北海道のオホーツク海沿岸に、「ハマナス」という花がたくさん咲き誇っているところがあります。塩気を含んだ砂地・・・冬には厳しい波風・風雪が吹きつけるところに育っていることは驚きですが、ハマナスの厳しい環境に対して適応していく方法を知った時、わたしは非常に感動しました。

木の高さは30センチくらいのハマナスですが、その根は10倍の3メートルにもなるそうです。見えるところに美しい花を咲かせるために、見えないところ・・・土の中でこんなにも根をはりめぐらせて、水分と栄養分を汲みあげているのです。

このハマナスの姿は、私達に大切なことを教えていてくれるような気がします。

美しい花を咲かせるためには、やはり私達は一つ一つのことに真剣に、忍耐強く取り組んでいかなければいけないということです。時には一生懸命取り組んでいても、なかなか結果がでないこともあるでしょう。努力しているのに評価してもらえず、投げ出したくなるかもしれません。けれども、そんな時こそ、あせらないで、あきらめないで、おちこまないで、根をしっかりとのばしてください。根をしっかりとはりめぐらせてください。必ず努力は実ります。

マラソンで有名な高橋尚子選手が、ケガで走れなかった時、高校の恩師の先生が教えてくれたという言葉があります。

「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根をのばせ。やがて大きな花が咲く」

若い皆さんには無限の可能性があります。どうか、勉強に、スポーツに、そしてあらゆることに、全力投球でチャレンジしてください。必ず大きな花が、世界で一つだけの花が、美しく咲くことを信じています。

先生方も、地域の皆さんも、また家族たちも、これからもずっと応援しています。

卒業おめでとうございます!」


Cngratulations!




2012年3月15日木曜日

新しい絆


昨日の午後、渋谷にある國學院大學で行われた、宗教文化セミナーに出席してきました。

仏教、神道、そしてキリスト教他の宗教関係者のためのセミナーで、大学の二人の教授による講演がメインです。

東日本大震災後の1年間、あまり知る人はいませんが、宗教団体による救援、支援はたくさん行われてきました。今なお継続され、多くの人の物質的な支援はもちろんのこと、心のケアにも大変貢献しているということ。

震災後の被災地における宗教者による「今までとこれから」が主な内容で、大切なことは「新しい絆」をつくりあげていくことができるかということ。

人と人とのつながりが回復することも人々の復興の力になると考えられる。共に生きる人間として互いに寄り添う隣人としての役割が今後も求められているということが語られました。

これは、今自分たちの住む地域でも大切なことだと思っています。

かつては、人と人とのつながりを豊かにするために宗教の果たしてきた役割は大きかったけれども、現代日本人には宗教団体の活動にはほとんど無関心なようです。

では、そういった環境の中で「新しい絆」を生みだし、社会に貢献するために、わたしたちの教会はどのような役割を果たせるのかなと、改めて考えさせられました。

近いうちに大学で宗教に関する意識調査のようなことが行われるそうです。
その一つは、

「宗教団体からどういった支援をしてほしいですか?」
あるいは「どういった支援はしてほしくないですか?」

だそうです。わたしも聞いてみたいです。みなさん、いかがですか?


2012年3月14日水曜日

世々限りなく生きて

祈祷会では、年会聖会(春の聖会)のメッセージ「純金の燭台を生きる」を見ました。

ヨハネの黙示録1:12-13、17-20

わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。

わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」

純金の燭台の起源は、紀元前1300年頃のモーセの時代にさかのぼります。
神殿のひな型であった幕屋を照らす燭台として神様がモーセに命じて造らせたものです。

そして、これはイスラエルのシンボルとなりました。イスラエルは全世界に神様の愛の光を輝かせるために選ばれた民族だと聖書は言っています。

けれども、紀元70年のローマ皇帝テイトスのエルサレム攻撃によって、第二神殿は破壊され、神殿の内部を照らしていた純金の燭台は持ち去られてしまいました。もう燭台の火は消えてしまったのでしょうか?そうではありませんでした。

ちょうど同じころ、使徒ヨハネは、光り輝く純金の燭台を見せられたのです。その燭台とは、教会を指していると、キリストは語られました。

燭台の火がともされて3300年。純金の燭台である教会の中に、この火は燃え続けていたのです。
そして、ついにもう一度、純金の燭台のシンボルであったイスラエルに受け継がれると聖書は言っています。今は、その時なのです。

聖書の言葉は、単なる物語ではなく、今わたしたちが生きている現代にも生き続けているのです。聖書の主人公、イエス・キリストは今も生きて、働きかけてくださっているからです。

「わたしは・・・生きている者である。一度は(十字架で)死んだが、見よ、世々限りなく生きて」いる。





2012年3月13日火曜日

信仰のゆえに


神様には不可能なことは何一つない。

自分はこの信仰に生きていないなと気がつかされる時があります。

もちろん神様の御心というものもあります。
ところが、信仰の先輩たちは、自分の前に立ちはだかる問題があるとき、神様の明確な答えがあるまで祈りぬき、そして結果を見たのです。

周りの人はもう無理ではないか、これが神様の御心ではないかと、諦めてしまったとしても、なお神様にくらいついて祈りぬいたのです。人間の力では入ることのできない信仰の世界へと神様はその扉を開いてくださるのです。

「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ11・2)

信仰の証を聞いて、わたしの心は燃やされました。わたしもその信仰の世界を見たい!


2012年3月12日月曜日

二人の自分


昨日のハッピーサンデーの一場面

「学校から帰るとき、雨が降っていました。自分は傘をもっています。でもお友達は傘を持っていません。」「さあ、こんなときどうする?」

「お友達の家まで傘をとってきてあげる!」 お~これはすごい!
「仲のいい友達だったら入れてあげる」 確かに。
「男の子と、女の子が傘に入るなら相合傘になるからいやだ!」 そうかも知れないね~。

色んな答えが飛び出してきます。

次の回答はすこし面白かったです。

「正しい答えは『入れてあげる』、だけど、実際は『仲のいい友達しか入れてあげないかも』。」

という、大人っぽい答えでした。子どももちゃんと分かっているのですね。

ここに「正しいことをしなければ」という自分と、それを「行わない」というもう一人の自分がいることが分かります。

「正しいこと」、「人にやさしくすること」を行うのには、時には勇気のいることです。神様は、そんな僕たち私たちに勇気と力を与えて、行うことができるようにしてくださるお方であることを伝えました。

ハッピーサンデーは、自分もハッピー、周りの人もハッピー、そして神様もハッピーになることができるようにと願いつつ、毎月1回行っています。

2012年3月11日日曜日

恐れることはない


3月11日
東日本大震災からちょうど1年たったこの日行われた、オープン礼拝では、犠牲になった方々、被災された方々のためにお祈りを捧げました。

語られた御言葉をご紹介します。

マルコによる福音書5章21節-24節、35節ー42節

:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。・・・
:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

会堂長ヤイロの娘の復活の出来事を学びました。

娘の死という、もはや人間の力の及ばない現実に対して、力強く語られたイエスの言葉は、震災後、たび重なる余震や放射能に対する恐れ、様々な不安を抱えている私たちにも、今もなお力強く響いてくるのです。


「恐れることはない、ただ信じなさい。」


オープン礼拝では、初めての方が2名参加してくださいました。
また、午後の子どもたちのハッピーサンデーでも、新しいお友達が2名参加してくれました。

新しい方たちが祈りに加わってくださり、感謝しています。



2012年3月10日土曜日

3月のオープン礼拝


明日は、3月11日。東日本大震災が起こってちょうど一年になります。

同じ日に、オープン礼拝をおこないます。

犠牲になられた方々のために、今なお避難生活している方々のためにお祈りを捧げたいと思います。

被災地の方だけでなく、たび重なる余震、今後起こるであろう地震、原発による放射能の問題。不安材料をあげればきりがありません。
今ほど、安心が必要な時はないのではないでしょうか。

オープン礼拝で、一緒に祈ってみませんか?

皆さんのおいでをお待ちしています。平安がありますように。


2012年3月9日金曜日

十戒

十戒の石板のイメージ

今日の午前中は、教会でキリスト教入門講座がありました。

悪天候にも関わらずおいでくださった皆様に感謝します。

最近は、マタイによる福音書をテキストにして学んできました。前回は「律法について」でした。
この律法の真髄というか、基盤となるのがモーセを通して与えられた「十戒」です。
そこで、今日から何回かに分けて十戒を学んでみることにしました。

今日は、十戒の全体像と、一つ目の「ただ一人の神」というテーマを学びました。    

聖書を祈りつつ学んでいくと、その深さ、広さにいつも感嘆させられます。

まさに
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマ11・33)
との御言葉のとおりです。

初めての方も、クリスチャンの方もこの素晴らしいバイブル・ワールドを味わってほしいです。


「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」(申命記6・4)




2012年3月8日木曜日

自分の最期


いきなり、葬儀の話しですみません。

と言いますのは、今日、オープン礼拝のチラシを配布していましたら、ご近所のご婦人の方とお話しする機会がありまして、葬儀について尋ねられたため、少し触れてみたいなと思いました。

一般の方にとっては、葬儀はまずお金がかかるものというイメージがあるようです。

そこで、当教会専属というわけではありませんが、最近行いました何回かの葬儀でお世話になっています、キリスト教葬儀社、株式会社 ナザレ さんをご紹介しておきたいと思います。

ナザレのサイトはこちら  http://www.nazareth.co.jp/

キリスト教の葬儀の一般的な考え方、料金など分かりやすくまとめてあると思いますので、興味のある方はご覧ください。

今日お会いした方のように、「自分の最期」について考えている方は少なくないのではないでしょうか。死について考えるのは決して縁起の悪いことではありません。その人の人生を真剣に考えるとても大切なことだと思います。

キリスト教式(教会での)葬儀について、関心があられる方は、お気軽にお尋ねください。

教会についての情報は、千葉シャローム教会ウェブサイトでご覧下さい。

  http://www.sepia.dti.ne.jp/chibashalom/



ちなみに明日は月に一度のキリスト教入門講座(無料)です。
10:30から教会で行っています。初めての方、大歓迎です。




2012年3月7日水曜日

燭台とオリーブの木

イスラエルの国章

祈祷会では、京都の年会聖会で語られた御言葉から学びました。

ゼカリヤ書4章1節~3節、6節、11節~14節

:1 わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようだった。
:2 彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。
:3 その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」

:6 「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。
武力によらず、権力によらず、
ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」

:11 わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」
:12 わあしは重ねて彼に尋ねた。「その二本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎだしています。」
:13 彼がわたしに、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしは「主よ、分かりません」と答えると、
:14 彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。


純金の燭台は、いつくかのものを象徴しています。
①イスラエル・・・イスラエルの国章は見ての通り燭台とオリーブの木です。
②教会
③クリスチャン

聖書は、純金の燭台に象徴されるイスラエルが、神様に託された使命を果たす時、世界に真の平和が訪れると約束しています。
オリーブの木が燭台に油を注ぎ、燭台の火が燃え続けることができたように、イスラエルに油である聖霊が注がれて、全世界の暗闇を照らすことができるのです。教会はその実現を祈ります。


「あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる。」(イザヤ書49・3)



2012年3月6日火曜日

白紙となって


私事で、聖会後にしなければならないことがあったため、それらを終えて、今日の午後に帰ってきました。

帰ってきたというよりも、新しい任地に赴いたと言ったほうがふさわしいと思います。

毎年、年会聖会の時から1年間、わたしたち牧師・教師は任地に遣わされていきます。昨年度と同じ任地であったとしても、新しい気持ちで、そこに赴くのです。

今年は、「白紙となって」という思いが自分の中でとても強く感じられました。

祭壇の前に座り、祈りました。「主よ、白紙となって、新しい思いで、主が置いてくださったこの場所で、神の御言葉の実現を見ることができますように。」


主は言われます。
「見よ、あたらしいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。」(イザヤ書43・19)

お言葉通り、なりますように。



2012年3月4日日曜日

各地へ遣わされ

年会聖会の最後の礼拝が終わり、神様の愛の御思いを抱いて、各々の任地へと遣わされて行きました。

真の平和の実現。

「われ速(すみやか)に我言(わがことば)をなさんとすればなり。」(エレミヤ書1:12文語訳)

2012年3月3日土曜日

純金の燭台を見つめて

京都の嵯峨野教会で、聖会が行われています。

純金の燭台を見つめて、というテーマで進められています。

モーセの時代に幕屋の内部の暗闇を照らす為に燭台が作られ、その灯火は燃え続けましたが、紀元70年に、ローマ帝国によってエルサレムは滅ぼされ、燭台は持ち去られてしまいました。この火は消えて無くなってしまったのでしょうか?

けれども、使徒ヨハネはその心の眼差しをもって、純金の燭台を見たのです。

その燭台とは、教会を象徴しており、教会とはキリストに結ばれたクリスチャンの事です。

この世の暗闇を照らす灯火という、クリスチャンに与えられた役割を再確認させていただきました。

明日の聖会が祝されますように。

2012年3月2日金曜日

京都の聖会

今日から年に二回の聖会のために、京都に来ています。

初めての携帯からの投稿です。

今日は、聖職者会がありました。全国から牧師、先生がたが集まり、御言葉を学び、聖会の祝福を祈りました。

聖会で受けた恵みが、各地に届けられることを祈ります。

2012年3月1日木曜日

克己


新渡戸稲造の「武士道」の中に克己(こっき)という日本人の特性が取り上げられています。

苦痛があっても物も言わずに耐え抜く忍耐力をつけ、相手を思いやって、自らの感情をあらわにしない態度を身につける、というものだそうです。

なるほど、武士の時代だけではなくて、現代の日本でもその性格は受け継がれているなと思います。

どんなに苦くても、つらくても、他者に見せるのは「ほほ笑み」。

「ほほ笑み」は苦痛から心を守り、それを乗り越えるための手段だと解説されていました。
日本人の忍耐強さはここからきているのだと改めて知ることができました。

でも、これはどこまでも自分の力で乗り越えていくという、自力本願的な考え方だと思います。
聖書の救いは、どこまでも神様にお任せする全くの他力本願です。
人間の力には限界があります。どうにもならなくなってしまう前に、神様に心を開いて、お任せしていただきたいなと心から願います。そこに自分の力では得られない素晴らしい救いの喜びがあるからです。


「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。」(箴言23・26)