2014年12月15日月曜日

わたしたちを愛して


14日(日)はクリスマスのオープン礼拝でした。



聖歌隊と子ども達の合同で、クリスマスの聖誕劇を、わたしたちのためにお生まれくださったイエス・キリストに心を込めて捧げました。



礼拝堂一杯に神様の愛が満ち溢れたように感じました。



沢山の方々がおいでくださり、良かった!感動した!と口々に言いながらお帰りになられる姿が印象的でした。



イエス様、わたしたちのためにお生まれくださって、ありがとうございました。



「神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、世を(わたしたちを)愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠の命を得るためです。」(ヨハネ3:16 リビングバイブル参照)


2014年12月8日月曜日

神は我々と共におられる


アドベント(待降節)第2週



礼拝では、羊飼いの礼拝の箇所が語られました。



ルカによる福音書2章8節~20節

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアで   ある。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。



救い主誕生の知らせは、ベツレヘムの郊外で野宿していた羊飼いたちに告げられました。



王でもなく、祭司でもない。誰よりも神様から遠く離れたような羊飼いたちに、喜びの知らせは届けられました。



彼らは貧しさゆえに、神様なしにはひと時も生きていられない人たちであり、神様を最も必要とする人たちでした。



羊飼いたちは、言ったことでしょう。
「こんなわたしのところにも、救いがやってきた。」
「こんなわたしのことも、神様は愛してくださった。」



お生まれになった救い主イエス・キリストを礼拝した彼らは、実感したことでしょう。
神は我々と共におられる、と。



この喜びの知らせは、2000年の時を超えて、あなたにも届けられています。
もし、あなたが神様を必要としておられるなら、羊飼いの経験した喜びは、あなたのものとなるでしょう。



「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1:23)







2014年12月2日火曜日

キリストをいだく

アドベント(待降節)が始まりました。



礼拝で語られたみ言葉はこちら。



ルカによる福音書2章25節~32節

 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
 2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」



メシア(救い主)との出会いにシメオンは人生をかけました。
神の御心に沿った願いに神は応えてくださいました。
ついに、彼は救い主キリストと出会い、その感動は頂点に達します。



人は何に人生をかけるかによってその人生の価値がある意味決まってしまう。



わたしたちは何に人生をかけるでしょうか?



2014年10月26日日曜日

ものの本質を変える

礼拝で学んだ聖書の言葉をご紹介

ヨハネによる福音書2章1節~11節

 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
 2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
 2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
 2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
 2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
 2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
 2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
 2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
 2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


イエス・キリストは、今日も尋ねておられます。


「水をぶどう酒に変え、ものの本質を変えることができる、わたしは誰か」と。


この問いに対する答えが、わたしたちの人生を大きく変えていきます。
あなたは、なんと答えられるでしょうか?









2014年10月3日金曜日

命の有るものと無いもの
















今日の聖書講座では、マタイ福音書シリーズ27 マタイ9章18節~19節、23節~26節を学びました。


指導者(会堂長、ヤイロ)の娘の復活の出来事です。



一般的に死は、人生に終止符を打つもの、人間存在の崩壊・自失と考えられています。



でも、本当の死とは、人間の心(霊魂)に命がないことです。



聖書にも、生きているというのは名ばかりで、その実死んでいる、という言葉があります。



良い例をご紹介しましょう。
有精卵と無精卵のことです。



どちらも見た目は変わりませんが、温めてみると大きく違います。



有精卵は、温めると雛がかえりますが、無精卵はどんなにあたためても雛がかえることがありません。命の有るものと無いものとの違いです。



わたしたちの霊魂に命があるならば、人生において、どんな逆風が吹いても、それに立ち向かうことが出来ます。でも命がなかったならば、その力はありません。



あなたの心(霊魂)は生きているでしょうか? 命があるでしょうか?



イエスが指導者の娘を復活させられたこの奇跡は、イエスは人の心に命を与えることのできる、命の神であることをわたしたちに教えます。



「この方(イエス・キリスト)こそ、真実の神、永遠の命です。」(Ⅰヨハネ5:20)



2014年9月29日月曜日

When You Believe

















礼拝で語られたみ言葉



ヨハネによる福音書11章40節
「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」

ルカによる福音書5章1節~11節
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し  寄せて来た。
 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
 5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
 5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
 5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
 5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
 5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
 5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
 5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


最近、When You Believe(もし信じるなら)という歌を教えていただきました。
15年前に上映されたPrince of Egypt という、モーセの出エジプトのアニメーション映画の中で歌われているものらしいです。


日本語に訳した歌詞をご紹介します。


幾晩も、祈り続けた
心に希望 抱きながら

もう 恐れない 苦難はあるけれど
山も動かす 力 信じて

奇跡は起こる 信じれば
希望は消せない

誰が奇跡を 成し遂げる
あなたが信じれば 深く心に



大きな信仰を与えられました。




2014年9月26日金曜日

最も重要な勝利

おゆみ野の家庭集会ではシリーズでルカ福音書を学んでいます。



教会の聖書講座でマタイ福音書シリーズを学んでいますので、マタイでは触れない箇所を主に取り上げて学ぶことにしています。



今日は、ルカによる福音書10章1節~20節

10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ    先に遣わされた。
・・・
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
・・・
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」



イエスに従う人たちが、神の言葉を語り、病を癒し、悪霊に打ち勝つ力と権威を与えられて各地へと派遣され、その行く先々で輝かしい勝利を収めて帰ってきました。



神の業をおこなうという勝利を収めることも素晴らしいことでしたが、最も重要な勝利は、自分の名が天に書き記されていることだとイエスは語られました。



神と出会い、永遠の命を受け、天国の国籍を持つものとなること、これが人間にとって一番価値のあることだと語られています。



「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ10:42a)





2014年9月24日水曜日

あなたと共に

 









祈祷会では、秋の聖会で語られたメッセージ「雲の柱、火の柱」を学びました。
 
 
 
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」(出エジプト記13:21-22)
 
 
 
「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(コロサイ1:27)
 
 
 
わたしたちの人生は、昼進むようにすべてが喜ばしいことばかりではありません。夜を経験することもあるでしょう。けれども、主はそのようなわたしたちに先立って進んでくださるので、わたしたちは歩むことが出来ます。
 
 
 
また、新約時代の奥義は、主イエス・キリストを心に迎えた人は、神様を外側に見るだけではなく、自分の内におられるお方に導かれながら、生きることができることを教えています。
 
 
 
これこそ、栄光の希望です。




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2014年9月18日木曜日

友人のため











祈祷会で学んだ聖書のみ言葉


「友人のために、命を与える以上の大きな愛はない。」(ヨハネ15:13 バルバロ訳)


イエス・キリストは、十字架上で命をお捨てになったのは、単なる犠牲の死ではなく、すべて信じる者に永遠の命を与えるためでした。自分の命を捨て、他者に自分の命を与える。これ以上の大きな愛はありません。イエス・キリストはただ語られるだけでなく、自ら実践されました。


イエスと出会い、イエスの愛と命に生かされたパウロも言いました。


「神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです」と。


イエスの愛の御思いが迫ってきました。


2014年9月12日金曜日

本気になって

家庭集会で学んだみ言葉の一つ

出エジプト記20:24b

「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」


ある本に、「やる気」と「本気」の違いが書いてありました。


「やる気」は外部の状況によって、自分の心のエネルギーを作り出している状態。
    
この場合、文句や言い訳が多くなってしまうといいます。


それに対して


「本気」は外部の状況には依存しない、いわゆる自主性の高い状態です。


だれかに勧められたからではなく、人に強いられたのでもなく、自分で、本気で、神様の名を呼んでみる。そこに神様の祝福があることを信じます。

2014年9月10日水曜日

キリストがすべて

祈祷会で学んだみ言葉

「神によってキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(Ⅱコリント1:30)

「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(コロサイ3:11b)


ホームページリニューアルと共に、ブログも再開します。

祈祷会の最後には日曜日に来られないご高齢の信徒の方のために、一足早く、敬老の日の祝福のお祈りおささげし、記念品をお渡ししました。

教会の礎となってくださっている皆さんに感謝します。