2014年10月26日日曜日

ものの本質を変える

礼拝で学んだ聖書の言葉をご紹介

ヨハネによる福音書2章1節~11節

 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
 2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
 2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
 2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
 2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
 2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
 2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
 2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
 2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


イエス・キリストは、今日も尋ねておられます。


「水をぶどう酒に変え、ものの本質を変えることができる、わたしは誰か」と。


この問いに対する答えが、わたしたちの人生を大きく変えていきます。
あなたは、なんと答えられるでしょうか?









2014年10月3日金曜日

命の有るものと無いもの
















今日の聖書講座では、マタイ福音書シリーズ27 マタイ9章18節~19節、23節~26節を学びました。


指導者(会堂長、ヤイロ)の娘の復活の出来事です。



一般的に死は、人生に終止符を打つもの、人間存在の崩壊・自失と考えられています。



でも、本当の死とは、人間の心(霊魂)に命がないことです。



聖書にも、生きているというのは名ばかりで、その実死んでいる、という言葉があります。



良い例をご紹介しましょう。
有精卵と無精卵のことです。



どちらも見た目は変わりませんが、温めてみると大きく違います。



有精卵は、温めると雛がかえりますが、無精卵はどんなにあたためても雛がかえることがありません。命の有るものと無いものとの違いです。



わたしたちの霊魂に命があるならば、人生において、どんな逆風が吹いても、それに立ち向かうことが出来ます。でも命がなかったならば、その力はありません。



あなたの心(霊魂)は生きているでしょうか? 命があるでしょうか?



イエスが指導者の娘を復活させられたこの奇跡は、イエスは人の心に命を与えることのできる、命の神であることをわたしたちに教えます。



「この方(イエス・キリスト)こそ、真実の神、永遠の命です。」(Ⅰヨハネ5:20)