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2013年10月4日金曜日

重荷を負っている人

久しぶりの更新です。


今日の午前中は、キリスト教入門講座がありました。


今週の日曜日に初めて礼拝に来られた、60代の男性が出席してくださいました。


あまり多くは語られませんでしたが、聖書のみ言葉を学び、お祈りしたとき、男泣きに泣いておられたのが印象的でした。


人には言えないいろいろな苦しみを抱えておられるのだと思います。


神様の愛は、その方の心に触れ、包んでくださったのだと思います。


とてもすっきりした、と何度も言って、帰って行かれました。


「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
                                           (マタイ11:28)


明日は、教会の若いメンバーの結婚式が横浜の教会で行われます。
10年間、共に歩んできたメンバーが嫁いで行かれるということで、少し寂しくはありますが、新しく築かれるお二人の歩みが祝福されますよう祈ります。


2013年7月5日金曜日

視聴覚教材

今日は、キリスト教入門講座がありました。


いつもは、マタイ福音書をシリーズで学んでいますが、今日は少し離れて、キリスト教の大切なテーマ「罪人の救い」について学びました。


聖書はイエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、人間の罪が赦され、救われるといっています。


聖書の基礎がないと、イエスが十字架で身代わりになったことと、罪人が赦されることが、どういう関係にあるのか、理解するのは難しいかと思います。


そこで、神様が旧約聖書の時代から、様々な出来事を通して、教えて下さった救いの原理の代表的な4つに注目しました。これは、罪人の救いに関する「視聴覚教材」といえます。


今日は、その一つ目の「いけにえ」についてシェアしたいと思います。


旧約聖書にあった、「いけにえ」の制度。


人が罪を犯したとき、牛や羊を連れてきて、頭に手を置き、それに罪を転嫁します。
本来は罪を犯した人自身が罪の償いとして死ななければなりませんが、動物に手を置いて身代わりにいけにえとして捧げられることで、その人の罪が赦されると神は言われたのです。


これが罪が赦される手段でした。


後に、イエス・キリストが地上に来られたとき、バプテスマのヨハネという人が、イエスを指してこういいました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。


これは、イエスという人が、すべての人間の罪の代わりに捧げられる「いけにえ」となられたということを意味しています。


イエス・キリストの十字架の意味が少し理解できたでしょうか!?










2013年2月2日土曜日

新しい基準

金曜日のキリスト教入門講座は、しばらく続けていたモーセの十戒シリーズを終えて、再びマタイによる福音書に戻りました。

ユダヤ人たちは旧約の律法を、心を尽くして守ってきました。
律法は外側に現れた罪を指摘するものでした。

けれども、イエス・キリストはさらに新しい基準を定められました。

行いだけではなく、その心の中における罪に目を向けられたのです。

心の中で、誰かを憎いと思う罪、あんな人はいなければと腹を立てる心の罪。それはらは人を殺した罪と同じだと言われるのです。

「そんなに厳しいことを言われたら、みんな罪人じゃないか。」

神様の前では、みんな罪人なのです。

そのすべての人の罪に身がわって、イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださったのです。

イエス・キリストは律法と預言を成就するために来たと言われました。
人は自分の力では、罪人の道を離れることはできませんが、イエス・キリストはそれを可能として下さるのです。感謝ですね!








2013年1月11日金曜日

真の満足

月イチのキリスト教入門講座

【十戒シリーズの最終章】

出エジプト記20章17節(口語訳)
「 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」

他の訳では欲しがるともなっています。自分のものではないもの、自分の所有する権利のないものを欲しがり、望むこと。

これは行為ではなく、心の中で思うことに関する戒めなので、更に難しい内容に思います。でも心に思ったことは、行為にまで発展することはしばしばですから納得です。このむさぼりという罪が原因で、今までどれだけの人が不幸に陥ってしまったことでしょうか。

ヘブライ人への手紙13章5節には、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」とあります。

神様への信頼と神様が自分に与えておられるもので満足できれば、むさぼり、貪欲という罪から開放されることを教えています。

事実、神様は、「わたしは有って在る者」といわれ、ご自分が無の深淵を満たし、真の満足を与えることができるお方だと宣言されました。

このお方で心が満たされたとき、「足りないものは何もない」のです。なんと素晴らしいことではないでしょうか。


2012年9月7日金曜日

神にかたどって

キリスト教入門講座をはじめて今日で22回目。

教会に来はじめて間もない方の受け皿としていつでもおいでいただけるように続けています。時々来られて間もない方も出席して下さいますが、普段は聖書をもっと知りたいと思う方たちが数名続けて出席しておられます。

今年に入ってから、モーセの十戒を学び始めています。今日は第六の掟を学びました。

「殺してはならない」(出エジプト20:13)

殺人について、死刑について、自殺について、最後には戦争について、聖書の観点からこれらの事柄について考えてみました。

ではなぜ人を殺してはならないのか。

聖書はこういっています。
「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(創世記9:6)

目に見える姿形ではなく、内面(霊といいますが)において、人は神の形に造られたから、人の命を奪うことはこの世でもっとも貴重な、もっとも聖なるものの崩壊を意味しています。


あなたという一人の人間は尊い存在なのです。