2012年4月30日月曜日

お休み

今日は、お休みをいただいて、ゆっくりと家族と過ごしました。

どこに出かけるわけでもありませんでしたが、庭でお昼を食べ、その続きにアルバイトと称して、子どもたちと一緒に、庭の草抜きや、植木の世話、小さな家庭菜園の準備などなど楽しみました。

ふざけながら、競争したり、喧嘩したり、大騒ぎです。

刈った草を集めたり、草を抜いたり、穴を掘ったり、杭を打ったり。作業といえば何でもないことですが、一緒に過ごすということは楽しいものです。

おかげで大分庭もきれいになりました。

こういう休日の過ごし方もいいものだと思っているのは、親だけでしょうか?


2012年4月29日日曜日

主の御名を呼び求める

連休にも関わらず、礼拝においでくださった方々に心から感謝します。

今日は、ローマの信徒への手紙10章10節~13節の御言葉から学びました。

:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

この言葉を書き残したのは、使徒パウロです。
彼は、もともと熱心なユダヤ教徒で、その熱心さゆえに自分こそは正統信仰で、そのほかは間違っている、自分は正しいと自負していました。

けれども、聖書の言葉によって心を照らされた時、自分の心の中に罪があることを初めて知ったのです。自分の望んでいる善をせず、望まない悪を行っている罪の性質が自分の中にあることをしり、自分こそが惨めな罪人であり、救いを必要としている人間であることを悟ったのです。

その彼が、十字架にかかり死なれたけれども、復活して生きておられるイエス・キリストと出会い、その信仰に革命が起き、イエスの弟子であるアナニアの祈りを受け、聖霊を受け、イエス・キリストをその心に迎え入れた時、彼は自分の心を支配していた罪から解放されたのでした。

彼は自分の救いの秘訣は、イエスこそは、自分の罪を背負って身代わりとなり、十字架にかかり血を流し、人類の罪を贖ってくださった救い主、そして自分を罪から解放し、聖霊を与え、永遠の命を与えてくださる神として信じ受け入れ、主の御名を呼び求めることこそが救いの秘訣であると証ししたのです。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」

「我は主なり、これがわたしの名である」(イザヤ書42:8参照)

すべての人が御名を呼んで救いに与ることができますように。



2012年4月27日金曜日

自分の足で立つ



千葉シャローム教会は、最近、県より宗教法人として認可されました。

公に認められて、社会的にも一人立ちすることができました。ますます責任ある立場として、地域のために、ご奉仕してできるよう努めます。

今日は、その続きと言いますか、日本年金機構の事務所に、厚生年金などの加入の手続きをしてきました。

教会は、今まで支えてくださっていたその手を離れて自分の足で歩み始めています。ちょうど、よちよち歩きの赤ちゃんが、自分を支えてくれていたお父さん、お母さんの手から離れて自分の足で立って歩くのと同じように。

最初はたどたどしい歩みかも知れませんが、次第にその歩みは強められ、しっかりとした足取りとなることを信じます。

使徒言行録には、足が悪くて、生まれつき一度も歩いたことのない男のことを紹介しています。彼は歩くことはできませんでしたが、パウロのメッセージを聞き、自分は癒されるとの信仰をもったのです。

パウロは彼の信仰を見て、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言ったところ、その人は踊り上がって歩きだしたのです。

教会の歩みもこれだと思いました。「自分の足で立ちなさい」と語られる神を信じ、立ちあがり、歩き出し、その歩みは、躍動感のある力強いものとなるのです。

千葉シャローム教会が、その信仰のあふれる教会でありますように。







2012年4月26日木曜日

イエスはどんなお方か


歴史上に現れ、この地上を歩まれたイエス・キリストに対する人々の評価は様々でした。

イエスの言葉を聞き、イエスの行われた奇跡を目の当たりにしながらも、ある人はイエスを奇跡をも行うことができる神の預言者・宗教家と考えていました。ある人はイエスは人類が待ち望んでいた救世主だと考えました。また、ある人はイエスの内に神を見、イエスを神と信じました。

同じお方を見てもこれだけ認識が異なってしまうのは不思議です。

窓ガラスにフィルムなどを張っていたら、光を十分に見ることはできません。透明のガラスは、光の一面しか見られません。けれども、プリズムを通してみると、光の持っている豊かさ、美しさを見ることができます。

それと同じように、信仰というプリズムを通して、イエスを見ると、イエスの本当のお姿、その豊かさが見えてくるのです。

礼拝でも同じことが言えると思います。先入観などはまずは横においておいて、信仰というプリズムを通してメッセージに耳を傾けるとき、その語られている内容が今まで聞いていたものと大きく変わってくるのです。その時、イエス・キリストがどんなお方かを知ることができ、素晴らしい救いを経験することができるでしょう。

聖書はイエス・キリストのことを証しています。

「御子(イエス・キリストのこと)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます・・・」(ヘブライ人への手紙1:3a)

さて、あなたの見るイエスはどんなお方でしょうか?




2012年4月25日水曜日

神を見せる


祈祷会で学んだみ言葉をご紹介します。

コリントの信徒への手紙 二 4章6節

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

イエス・キリストをその心に迎え、内面においてイエスを見つめ、イエスに触れ、イエスと交わるうちにその人はイエス・キリストと同じような人に変えられると聖書は言っています。その変えられた人と出会ったとき、人々はその人を通して神を見るのです。

フランスのアルスの司祭、聖ヴィアンネー神父の姿を見た人は、「一人の人間の中に神を見た」と言いました。

トラピストのドン・マルミオン大修院長先生のことを修道者たちは、「先生は神に触れさせてくださいます。本当に神ご自身に触れさせてくださいます」とその印象を話しました。

聖イエス会の創立者の大槻牧師の印象をある先生は「牧師は神を語るだけではなく、神を見せてくれた。神に触れさせてくれた」と証ししておられました。

「百聞は一見にしかず」と言いますが、100回キリストについてのお話しするよりも、その人の存在を通して神を、キリストを見せるほうがはるかに勝っていると思います。

そういう人でありたいと心から願っています。









2012年4月24日火曜日

子供たちを来させなさい

今年から、聖イエス会の教会学校部のご奉仕をすることになりました。

昨日は最初のスタッフ会議が京都で行われました。

朝の始発のバスで出勤?しました。さすがにこの時間はあまり人は乗らないだろうと思っていたら、なんとなんと駅に到着するころにはバスは満員。

毎日通勤している方々のご苦労が身にしみました。

スタッフ会議は、新しいメンバーも加えられ、今まで取り組んできたこと、現在進められていること、そしてこれからやろうとしていることなどなど共有する時間を持ちました。

これもまた、見えないところで先生方が、ただ子供たちの魂の救いと、心の成長を願って奉仕しておられることを知って胸が熱くなりました。

イエス・キリストも子供たちを格別愛して、次のような言葉を残しておられます。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコ10:14)

子供たちは、教会にとってはもちろんのこと、家庭でも、地域でも、国でも、世界でも未来に対する希望です。この子供たちのためにご奉仕させていただけることに喜びを感じました。
これからご奉仕が祝されますように。

また、千葉シャローム教会は地域の子供たちが喜んで集うことのできる教会を目指します。どうぞ、こどもたちを送り出してください。





2012年4月22日日曜日

イエスだと分かった


礼拝では、エマオ途上の弟子たちとイエスとの出会いの場面を学びました。
み言葉を紹介します。

ルカによる福音書24章13節~16節、25節~32節

:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
:14 この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
:15 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

イエス・キリストは今も生きて、どんなときにもわたしたちと人生を共にしてくださるお方です。
み言葉に触れる一人ひとりが、信仰の目を開いていただき、自分を慰め、力づけ、救い出してくださるお方が「イエスだと分かる」日が来ますように。



2012年4月21日土曜日

受け継がれる信仰


先週の木曜日早朝に台湾在住の老姉妹が亡くなられました。
明日はその方の告別礼拝が台湾で行われることになっています。


老姉妹は、千葉シャローム教会の教会員のお母様で、わたしも台湾伝道に参加した時、何度かお会いし、またその家に泊めていただいたこともあります。

姉妹の祖父は台湾の名のある牧師で、台湾南部のキリスト教会の開拓者です。姉妹もその信仰を受け継ぎ、クリスチャンとして神に仕えていましたが、1988年にイエス・キリストの御名による神と出会ったときから、その信仰とイエス・キリストへの愛と忠実はさらに強いものになり、今日に至りました。

日本から牧師たちが伝道のために訪れた時には、自宅を開放して、集会所とし、牧師たちの宿泊などあらゆる面でサポートしてくださいました。わたしも姉妹のあふれるばかりのもてなしを受けたその一人です。

ご自宅を訪問する時は、いつも笑顔で迎えてくださった姉妹がもうおられないと思うと寂しい気持ちでいっぱいです。

でも、姉妹のお姿は見えないけれども、姉妹の信仰はしっかりと子々孫々受け継がれています。

千葉シャローム教会では、姉妹の娘夫婦、孫たち、そしてひ孫まで、教会に通い、イエス・キリストを信じ、愛し、神に仕えています。老姉妹の娘さん宅に行きますと、家庭祭壇があり、そこには「わたしとわたしの家は主に仕えます」と御言葉の書いてあるプレートが掲げられているのです。

明日の告別礼拝が祝され、ご遺族の方々に神様からの慰めと平安がありますように。

老姉妹の信仰が、これから後も、子々孫々の内に生き続け、神の恵みが満ち溢れますように。


「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる。」(申命記7:9)



2012年4月20日金曜日

「わたしの」主

今日は、おゆみ野で家庭集会がありました。

復活されたイエスと、弟子のトマスの出会いを学びました。

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネによる福音書20:27-28)

自分が部屋にいなかったとき復活されたイエスが他の弟子たちと出会ったことを聞きましたが、彼は自分で確かめてみなければ決して信じないと言い張るのです。

教会の話や聖書の話をすると、とても嫌がり、喧嘩腰になる方がおられます。それはその人なりの自分の考えがあってのことなので、ある意味仕方がありません。その人はトマスに似ていると言ってもいいかもしれません。

イエス・キリストはそういうトマスにも出会ってくださったのです。

イエスと出会ったその時、今まで信じることさえできなかったトマスは、信じる人に変えられました。
彼はイエスに対してこう告白しています。「わたしの主、わたしの神よ」と。

彼の言葉はイエスこそは死に打ち勝つ、真の主であるとの信仰告白です。
また、イエスこそはイスラエルの神である、そしてイエスこそは「わたしの」主であるとの告白です。

今の今まで信じることができなかった彼に、このような信仰を持たせてしまう。これが福音の力であり、イエス・キリストの愛の力なのです!


2012年4月19日木曜日

愛は罪を覆う


木曜日は牧師の相談日です。

今日は、一人の方がご自分のことをお話しに来てくださいました。

お名前もお聞きできませんでしたし、どこに住んでおられるのかも詳しくは教えていただけませんでしたが、それでもいいと思っています。誰にも知られたくないのです。

もちろん、ここでその内容に触れることもしませんが、お話しを伺っていて、こうしたらよいのではないか、こうすべきではないか、と色々助言したくなってしまいます。けれども、それらの言葉は今はあまり意味のないことだとしみじみと思わされました。

「こうしなければいけないのは分かっている。でもできないのです。」

これが人の抱えている苦しみなのかも知れません。

そのどうにもならない自分を、ありのまま受け入れてくれることを求めているのではないでしょうか。そのことを思わされ、ただ神の愛がその方をあるがままに受け入れ、包んでくださることを願い、祈らせていただきました。

「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(Ⅰペトロ4:8)


2012年4月18日水曜日

主の方に向き直れば

祈祷会で学んだ御言葉をご紹介します。

コリントの信徒への手紙二 3章16節~18節

:16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
:17 ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のあるところに自由があります。
:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

聖書は、人が、ただイエス・キリストを信じて、悩み・苦しみから救い出されることだけが目的ではないことを記しています。救いを経験したのち、さらに人間本来の姿に回復してくださると約束しています。

その実物見本は、主イエス・キリストです。その内面がイエス・キリストと同じ姿に造り変えてくださるのです。

先週、一人の信徒の方のお母様が亡くなられました。90歳を過ぎておられました。24年前に「我は主なり」と言われるイエス・キリストと魂の奥底で出会い、その時から、彼女の心はキリストと同じ姿に変えられ始めました。

それは、内面だけにとどまらず、その亡くなった姿から、神々しいまでの輝きを放っておられたとのことでした。もうお化粧もいらなかったそうです。

人生の最後に、このように美しく装ってくださり、喜びと平安の内に天国に帰ることができることは、幸いなことではないでしょうか。

その秘訣は「主の方に向き直れば」だと思います。

今までの自己中心の行き方から方向転換をして、その心を神様に向けようとした時、主イエス・キリストは素晴らしい救い、変容、完成を準備して待っていてくださるのです。

誰でも通ることのできる、この救いの道に向かってみないでしょうか?


2012年4月17日火曜日

行き詰まっても


日曜日の午後の聖会で語られた御言葉をご紹介します。

コリントの信徒への手紙二12章9節-10節

:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

「わたしが強い時、わたしは強い」と言われたら、誰もがYESとは言えないかもしれません。
でも、「わたしが弱い時にこそ強い」のであるならば、すべての人がアーメン(信じます)と言うことができるのではないでしょうか。これが福音の力です。

聖会では、7つの病を抱えて、あとは死を待つばかりの人が、教会に連れてこられたとの話を聞きました。文字通り、もう後がない、行き詰まりの状態です。けれども、聖書は言います。「行き詰まりの状態であっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」

牧師が神の命の言葉、力の言葉である「我は主なり」との御名によって祈られた時、その人の心に誠の神であり癒し主であられるイエス・キリストがおいでになり、その魂にまことの救いを経験され、平安を得られました。そればかりか、病をも癒していただくことができました。

本当に福音は素晴らしいです。どんなに行き詰まりの状態からでも立ち上がる力を神は与えてくださるからです。

聖会の最後は、皆神様の祭壇の前に出て、一人ひとりが力強く立ち上がって歩くことができることを信じ、教会にリバイバル(信仰復興)が起こることを信じて、心から祈りました。

アーメン。お言葉どおりなりますように!


2012年4月16日月曜日

悩みの日にわたしを呼べ



昨日は、静岡県の小山教会から牧師を迎えて献堂2周年記念聖会が行われました。

御言葉をお伝えします。

①詩編50編15節(口語訳)
  悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。

②列王記下5章1節、9節-14節
:1アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
:9ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
:10エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
:11ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
:12イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

ナアマンの身に起こった奇跡は、過去のものですが、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」との神の言葉は今も生きていること。現代におけるヨルダン川はイエス・キリストご自身のことであり、神の言葉、神の本質である御名であるという霊的な意味を教えていただきました。

一同、自分自身の心こそは重い皮膚病であるナアマン自身であることが示され、「我は主なり」と言われるイエス・キリストというヨルダン川の中に飛び込んでいきました。

神様の大きな祝福が、お一人お一人の心に与えられたことを心から信じつつ、今回の聖会を与えてくださった神様に心から感謝しました。


2012年4月14日土曜日

祈りをつなぐ

明日は、千葉シャローム教会献堂2周年の記念聖会です。

講師を招いての2回の聖会が行われます。

今日は、朝から夜まで、連鎖祈祷に取り組みました。
参加者が時間を決めてある人は家で、ある人は教会で聖会の祝福を祈るのです。
絶やすことなく祈りをつないでいく、ということで連鎖祈祷と呼ぶことにしています。

今までも、この祈りは天に届けられ大きな祝福を受け取ってきました。
明日も素晴らしい聖会になることを信じます。

大いなる期待をもって、聖会を待ち望みたいと思います。


2012年4月13日金曜日

わたしが選んだ器


今日も、聖会のためのお祈り会が行われました。
集まってくださった信徒の方と心を合わせて聖会の祝福を祈りました。

「すると主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。』」(使徒言行録9:15)

サウロがキリスト教の迫害者であったときから、すでに神様は彼を選び出し、神ご自身を宣べ伝える器となった姿の彼を見ておられました。

人の目と、神の目との違いですね。

わたしたちがクリスチャンとなったのは、自分の決心や意思のように思われがちです。けれども、実はその背後に神様の選び、神様の愛による導きがあったことに気が付かされます。

だからわたしたちは前を向いて歩くことができるのだと思います。神様が共にあって支えてくださっているからです!神様の真実と愛に感謝します。


午後は、教会に一人の方がおいでになりました。
以前は教会に通っておられたそうですが、もうしばらく通っておられないとのこと。

色々な苦しいことを通らされ、自分を助けてくださるのはイエス・キリスト様しかないと思わされ、もう一度神様に近づいてみたいという思いで、電話帳で千葉シャローム教会を見つけられたそうです。

聖書に「神は・・・永遠(神様のこと)を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉3:11)という言葉があります。

神様を思う心となったということも、神様の導き、神様の選びから来ているのではないでしょうか?

この方の人生が祝福されますように。













2012年4月12日木曜日

今、彼は祈っている


15日(日)には、千葉シャローム教会献堂2周年記念の聖会を予定しています。
静岡県から牧師をお迎えしての特別な聖会です。

昨日の祈祷会から連続で3日間お祈りをもっています。

今日も信徒の方が祈りに来てくださり、とても小さな祈り会でしたが、聖会の祝福をともに祈りました。

「主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入ってきて自分の上に手を置き、元通り目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」(使徒言行録9章11節、12節)

キリスト教徒を迫害しているさなかに、復活のキリストと出会い、サウロは目が見えなくなってしまいました。自分の間違いを知り、悔い改め、アナニアの来訪を待ちながらサウロは祈っています。

わたしたちは、ちょうどサウロがアナニアを待ち望み祈っているのと同じように、講師の先生がおいでになることを待ち望みながら祈っています。

・わたしたちの心の目が開かれて、イエス・キリストをもっと深く知ることができますように。
・救いを体験する人々が多く起こされますように。
・おいでくださる講師の牧師の心も体も主が強めてくださいますように。
・この救いが、教会の中だけにとどまらないで、広く、遠く及びますように。

明日も、お祈り会が行われます。この御言葉をもう一度学んでみるつもりです。
聖会が祝福されますように。


午後は、ご近所でお亡くなりになった方を、斎場でお見送りしました。

教会においでになっている方ではありませんが、教会の信徒の方の関わりのある方で、遺されたただ一人のご家族だった息子さんが、牧師によるお祈りを希望されたため、葬儀は行わず、直葬という形でお見送りのお手伝いをさせていただきました。

「我は復活なり命なり」と言われるイエス・キリストが、お亡くなりになった方の霊魂を憐み、ご自身の愛の御手で抱いてくださることを祈りました。また、愛する方を失い悲しんでいるご遺族の心に、神様の慰めがありますように祈りました。







2012年4月11日水曜日

わたしも受けたもの

今日の祈祷会では、次のお言葉でお祈りしました。

コリントの信徒への手紙 一 15章3節~8節

:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

もとはキリスト教の迫害者であったパウロが、復活のキリストとの出会いによって、今度はキリストの復活を証しする人に変えられました。

彼はこのようにキリストを証しし、宣べ伝えるようになったのは、人から聞いたのでも、誰かを通して教えられたのでもなく、イエス・キリストご自身と直接出会い、キリストの命に生きる者となったのだと繰り返し伝えています。

御言葉を学びつつ、自分の救いの素晴らしさを改めて実感しています。
そう。「十字架のキリストとの出会い」「復活し、今も生きておられるキリストとの出会い」その出会いは、「わたしも受けたもの」だったのです!






2012年4月10日火曜日

夏の準備


今日は、関東地区の若い先生たちと一緒に、夏の中学生のキャンプの会場の候補となっている厚木の施設を見学してきました。

厚木ICを下りて、10km弱も走れば、自然の豊かな山のふもとです。そこに建てられた立派な施設な施設を見学してきました。

宿泊棟、集会ホール、体育館、野外炊飯場etc、とても充実していて、部屋を確保できるならぜひ使わせてほしい施設だと思いました。

ここで、中学生たちがのびのびと野外で活動し、賛美を歌い、共に話し合い、そして祈り合う・・・。そんな光景を思い浮かべつつ・・・。

所員の方に案内していただき、終わったのがちょうどお昼過ぎだったので、小高い丘の上で、周りの山に囲まれた景色を眺めながらお昼をいただきました。

街中に住んでいて、あわただしい毎日を過ごしていたのか、いつしかこうした自然に囲まれてのんびりすることを忘れてしまっていました。思いがけずリフレッシュの時となりました。

思わず、「あ~来てよかった!」・・・「あれっ、何しに来たんだっけ」と言っていました(笑)。

こんなひと時を与えてくださった主に心から感謝します。



2012年4月9日月曜日

男たちの会


昨日の礼拝後は、既婚の男性を中心とした会(教会では、イエスの父にちなんでヨセフ会と呼んでいます)で、天台のスポーツセンターで花見昼食会をしました。

担当してくださった方が、「男性ばかりですし、一時間もしたら帰ってきますよ」と話して出発していかれましたが、2時間しても帰ってこられず、どうやら話のほうも花が咲いたようです。

自分たちの日頃抱えている問題を共有し、これからの信仰をもって歩む生涯について語り合ったそうです。

これを聞いた婦人会(マリア会)のメンバーが、わたしたちもやりた~い、と話しておられました。そうですね、来年は、計画しましょうね~。

教会では、何でも話し合える仲間がいます。自分の心の中を打ち明け、祈り合い、支えあうことのできる兄弟姉妹がいます。素晴らしい共同体だと改めて思わされました。





2012年4月8日日曜日

イースター


今日は、イースター(復活祭)を祝うオープン礼拝でした。

洗礼式も行われ、一人の大学生が受洗し、神の家族である教会に迎え入れられました。
千葉シャローム教会での初めての洗礼式で、新たなメンバーが加えられたことは群れにとっては大きな喜びとなりました。姉妹のこれからの信仰の歩みが祝されますように!

今日語られた御言葉を紹介します。


ヨハネによる福音書20章1節、11節~18節

:1  週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

復活されたイエス・キリストとの出会いによって、イエスを見失い、泣いていたマグダラのマリアの悲しみを喜びに変わり、失望を希望に変わりました。この素晴らしい出来事は、現代のわたしたちにも起こるのです。なぜならイエスは復活して生きておられるからです。

イエスは、生きておられる。これがわたしたちの希望であり、信仰の源です!

Happy Easter! イースターおめでとう!



2012年4月7日土曜日

記念会


柏市鷲野谷にあるラザロ霊園で、昨年2月に天に召された姉妹の1周年の記念会が行われました。

姉妹の思い出を語り合い、また、その信仰の歩みをたどりました。
彼女の生涯の中で神様が与えてくださった恵みを改めて思い、感動しました。

晩年の病との闘いは厳しいものでした。それは十字架を負う日々でした。けれども、かの日かの時、彼女の心の内に御名によっておいでくださった主イエス様は、その苦しみを共に負ってくださいました。彼女は、地上の生涯を終えるその時まで、「神様がわたしと共に、わたしの内におられる。それだけで十分です。」「我は主なり」「神は愛なり」と神の名を呼び続けておられました。

その最後のお姿は、イエス・キリストを映し出す、本当に清らかなものでした。
人間にとってなくてならないものは一体何なのか、存在をもって証ししてくださいました。
それは永遠の命、神様ご自身を心に持つことです。

明日はイエス・キリストが復活された日を喜び祝う復活祭(イースター)です。

主イエス・キリストの十字架の愛に感謝し、復活の主と共に、神様の命によみがえらせていただきましょう!





2012年4月6日金曜日

見えない神


月に一度のキリスト教入門講座

今日は前回に続き、出エジプト記20章からモーセの十戒を学びました。

:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

見えない神を、見える形で造ってはならないという戒めです。

神様の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える、とありますから、神様の祝福が約束された戒めを守ることに熱心でありたいと思います。

現代では、上記の言葉を知りながら、あえて偶像を造り礼拝することはないと思います。でも人間はこの世の中で一番大切に思っているものを神様としてしまいます。

人は、気が付くとよりよい環境にあるよりよい家、よりよい家電、よりよい車、素敵な海外旅行etc というものが人間を幸せにすると思いこんでいます。

これは、実は物が神様にしていることで、本当の神様と言えるでしょうか?神様の慈しみを受け取ることができるでしょうか?

自分の生活の中で、何を一番にしているのか、それが神様の慈しみ、恵みを受け取ることとつながっていることに気がつかされます。

神様が願われたように、すべての人が「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)


今日は、教会の地域の中学校の入学式でした。
私事ですが、長男も無事に中学生になりました。

入学生の皆さん、おめでとうございます。これからの中学校生活が祝福されたものとなりますように。




2012年4月5日木曜日

4月のオープン礼拝


次の日曜日は初めての方でもわかりやすいオープン礼拝です。
ご近所の皆様にはオープン礼拝のチラシを投函しています。

4月8日(日)10:30~ イースターをお祝いする礼拝です。

「行ってみたい気はするけれど、なかなか踏み出せない」と言われるあなたの勇気ある一歩を大歓迎いたします!

教会はクリスチャンでない方も出席できる場所です。信仰を強いることもありません。

何も持たず、普段着でおいでください。お待ちしていますよ。


ちなみに、明日は月に一度のキリスト教入門講座です。10:30から教会で行っています。

1時間ほど学び、その後はお茶を飲みながらお話しをしています。キリスト教について、教会について、聖書について、色んな質問も飛び交います。時には即答できない時もありますが(汗)、共に学ばせていただけて感謝しています。





2012年4月4日水曜日

優しい心遣い

祈祷会では、次の御言葉を学びました。

ヨハネによる福音書19章25節~27節

:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

イエスが十字架に磔にされた時、4人の婦人たち、また弟子たちが十字架のふもとで立っていました。
一人はイエスの母マリアです。イエスは救い主メシアであるけれども、肉においては自分の子です。人類の罪の贖いのために、その身を十字架にささげ、血を流し、死のうとしているイエスを見つめ、母としてどんなに苦しい思いをしたことでしょう。

けれども、それが人類の救いのためであるということを信じればこそ、マリアは自らの苦しみ、悲しみを耐えしのんでいるのです。

今や十字架の贖罪は完成しようとしています。

愛する子を失う親の悲しみは、経験した人でしか理解することはできないでしょう。イエスは自分の死を通して悲しみに満たされるであろう母マリアの心を見通しておられたのだと思います。そこで、イエスは母を、愛弟子のヨハネに託したのです。(ヨハネの母はマリアの姉妹であったようです)

十字架上で血を流し、まさに死のうとしている、苦しみの絶頂のただなかであったにもかかわらず母に対する優しい心遣い、配慮を見たとき、イエスの内からあふれる神の愛の偉大さをたたえずにはおられません。

愛する人を失って、悲しみの中にある人がおられるでしょうか。
母マリアの心をご存じであったイエスは、その人の心も知っておられます。それだけではなく、心の中にあるぽっかりと空いてしまった穴をもイエスは埋めることがお出来になる方です。

神の愛のもとにとどまってください。 神は愛なり!


2012年4月3日火曜日

キリストの愛が強く迫って


今日は、甲府の教会でご奉仕をしておられた先生の葬儀に参列してきました。

40代という若さで天に召された先生の死を悼み、また残された中学生の娘さん、ご主人の牧師のことを思うと慰める言葉も見つかりません。ただ、そこにいて共に悲しみ、ご家族、ご遺族の方々の上に神様からの慰めがありますようにと祈らせていただきました。

先生の思い出が語られ、その信仰のお姿が証しされたとき、日曜日の礼拝で触れた一人の夫人のことを思い起こしました。彼女の名はヴェロニカと言います。

イエス・キリストが死刑を宣告され、自ら十字架を背負い、カルバリーの丘を目指します。鞭打たれ、唾を吐きかけられ、茨の冠をかぶせられ、血だらけとなって刑場への道をよろめきながら歩まれます。

十字架は、全人類の苦しみ、悩み、悲しみ、痛みの原因となっているものすべてだと聖書は言っています。それを神の御子イエス・キリストは背負われ、十字架にかかって人類の身代わりに死のうとされるのです。にも関わらず、同情する人はほとんどいません。

けれども、イエスの十字架の意味を信仰によって知ったヴェロニカは、自らの危険をもかえりみず、ただ、イエス・キリストの十字架の示す愛に少しでも応えたいとの願いから、イエスのもとに飛び出し、イエスの顔にまみれた血や泥をぬぐうためにハンカチを差し出したのでした。

イエスはそれを喜び、ご自分の顔を拭くと、感謝をもって彼女に返されました。そのハンカチにはキリストの顔が写ったのです。そしてそのハンカチは、今でも聖なる遺物として存在しているとのこと。

キリストへの愛のために、自分のすべてをささげた時、キリストはご自身の聖なるお姿を人の心の中に写してくださるのです。

先生のお亡くなりになったお顔を拝見した時、確かにキリストの姿そのものと思える高貴なお顔をしておられました。イエス・キリストが示してくださった愛に応え、キリストへの愛のために生き、キリストへの愛のために死んだ人しか持つことのできない気高いお姿だと思いました。

先生の心の内に燃えていたキリストへの愛が、そして人々への愛が、ただただ満ち溢れていました。


「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」(Ⅱコリント5章14節)




2012年4月2日月曜日

スペシャルハッピーサンデー


毎月日曜日に一回行っているハッピーサンデーの卒業生を送る会をしました。
月曜日ですが、スペシャルハッピーサンデー!?

新しいお友達も加わわって、楽しい時間を過ごしました。

♪ 一緒に歌おう! 踊りつきで歌いました。
♪ お話しを聞こう
世界の偉人の中から、ノーベル平和賞を受賞したシュヴァイツァー博士のお
話しを聞きました。   
♪ 卒業生に送るベルの演奏
小さな演奏会でしたが、卒業生のためにみんな一生懸命ベルを演奏しました。
♪ パックドッグを一緒に食べよう!
牛乳パックの中にアルミホイルで包んだホットドッグを入れて、牛乳パックを火で燃やします。
パックが燃え尽きる頃に火から取り出すと、少し焦げ目のついた暖かくておいしいホットドッグの完成です。火加減がポイントで、焦げすぎたり、焼きが足りなかったりと、ワイワイ楽しくいただきました。

お話しの時間のシュヴァイツァー博士は、「すべての命を助け、愛する」ということを生涯をかけて実践した方です。医師として、アフリカに行き、90歳でなくなるまで、アフリカの人々に生涯をささげました。
この博士の素晴らしい働きは、子供のころに教会で聞いた神様の言葉が基礎になっているそうです。
色んな可能性を持っている子供たちが、子供の時代に神様を知ることは本当に素晴らしいことだと思います。彼らが、人のために、尊いことのために生きる人になってほしい。そんなことを願いながらハッピーサンデーも続けていきたいと思います。

卒業生の皆さん、おめでとう。 中学生になってもぜひ続けて教会に来てくださいね!


2012年4月1日日曜日

十字架の道行


今日からの1週間は受難週といいます。

イエス・キリストが十字架にかかられた日を記念する受難日を迎えるのです。

今日は、イエス・キリストが死に定められ、十字架を負いながら、十字架刑の処せられるカルバリーの丘を目指して歩まれた出来事を、「十字架の道行」と題してお語りしました。

十字架の道行をたどりながら、主の深い愛を知り、大きな感動を与えられました。
また同時に主の苦難の原因である自分の罪を知って、悔い改めへと導かれました。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙5・8)

十字架の苦しみは、わたしのためでした。 神は愛なり!