2012年4月3日火曜日

キリストの愛が強く迫って


今日は、甲府の教会でご奉仕をしておられた先生の葬儀に参列してきました。

40代という若さで天に召された先生の死を悼み、また残された中学生の娘さん、ご主人の牧師のことを思うと慰める言葉も見つかりません。ただ、そこにいて共に悲しみ、ご家族、ご遺族の方々の上に神様からの慰めがありますようにと祈らせていただきました。

先生の思い出が語られ、その信仰のお姿が証しされたとき、日曜日の礼拝で触れた一人の夫人のことを思い起こしました。彼女の名はヴェロニカと言います。

イエス・キリストが死刑を宣告され、自ら十字架を背負い、カルバリーの丘を目指します。鞭打たれ、唾を吐きかけられ、茨の冠をかぶせられ、血だらけとなって刑場への道をよろめきながら歩まれます。

十字架は、全人類の苦しみ、悩み、悲しみ、痛みの原因となっているものすべてだと聖書は言っています。それを神の御子イエス・キリストは背負われ、十字架にかかって人類の身代わりに死のうとされるのです。にも関わらず、同情する人はほとんどいません。

けれども、イエスの十字架の意味を信仰によって知ったヴェロニカは、自らの危険をもかえりみず、ただ、イエス・キリストの十字架の示す愛に少しでも応えたいとの願いから、イエスのもとに飛び出し、イエスの顔にまみれた血や泥をぬぐうためにハンカチを差し出したのでした。

イエスはそれを喜び、ご自分の顔を拭くと、感謝をもって彼女に返されました。そのハンカチにはキリストの顔が写ったのです。そしてそのハンカチは、今でも聖なる遺物として存在しているとのこと。

キリストへの愛のために、自分のすべてをささげた時、キリストはご自身の聖なるお姿を人の心の中に写してくださるのです。

先生のお亡くなりになったお顔を拝見した時、確かにキリストの姿そのものと思える高貴なお顔をしておられました。イエス・キリストが示してくださった愛に応え、キリストへの愛のために生き、キリストへの愛のために死んだ人しか持つことのできない気高いお姿だと思いました。

先生の心の内に燃えていたキリストへの愛が、そして人々への愛が、ただただ満ち溢れていました。


「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」(Ⅱコリント5章14節)




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