2013年12月19日木曜日

イエスと名づける

祈祷会のみ言葉


マタイによる福音書1章18節~25節


1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人        が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろ      うと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリア      を迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うから      である。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであ      った。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神      は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。


「その子をイエスと名づけなさい」「聖霊によって身ごもっていた」「聖霊によって宿った」


わたしたちの群れは「聖イエス会」と言いますが、その名前の所以は、21節のお言葉にあります。


そして、救い主イエスが聖霊によって誕生したように、この群れも聖霊(神様)によって生まれました。そして、その使命も、イエス様と同じです。これからもイエス様の仕事をしましょう。



2013年12月9日月曜日

神が求められる協力者

















礼拝では、イエスの母となったマリアに告げられた救い主誕生の知らせの箇所を学びました。


ルカによる福音書1章26節から38節まで


1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおと    めの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座      をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りま    せんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子      は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われ    ていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこ    で、天使は去って行った。


マリアの協力によって、ついに救い主イエス・キリストの誕生が実現しました。
神様は、いつもご自分の救いの働きをされるとき、人の協力を求められます。
もったいないことです。


受けた恵みをお返ししたい。そんな思いで昨日は教会周辺の家に、クリスマスの礼拝の案内を配らせていただきました。22日にはどなたでも参加していただけるクリスマス礼拝を予定しています。
どうぞお出かけください。






2013年12月4日水曜日

神様は約束を守られる

祈祷会で学んだ言葉


「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ1:22)


Q.クリスマスは何の日?

A.イエス・キリストの誕生


Q.イエス・キリストの誕生は、偶然?

A.必然


Q.なぜですか?

A.旧約聖書の中に、とりわけ預言者を通して約束しておられるから。
   人類が誕生して間もない時から、つまり創世記の中にも、救い主メシアの出現は予告されていました。



「神様は約束を守られる」ということを学びました。


聖書にはたくさんの約束が記されています。そして、それらは一つも地に落ちないで実現していきます。それを探すのもいいですね。そして、それを信じる幸いな人になりたいです。




「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:45)

2013年10月4日金曜日

重荷を負っている人

久しぶりの更新です。


今日の午前中は、キリスト教入門講座がありました。


今週の日曜日に初めて礼拝に来られた、60代の男性が出席してくださいました。


あまり多くは語られませんでしたが、聖書のみ言葉を学び、お祈りしたとき、男泣きに泣いておられたのが印象的でした。


人には言えないいろいろな苦しみを抱えておられるのだと思います。


神様の愛は、その方の心に触れ、包んでくださったのだと思います。


とてもすっきりした、と何度も言って、帰って行かれました。


「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
                                           (マタイ11:28)


明日は、教会の若いメンバーの結婚式が横浜の教会で行われます。
10年間、共に歩んできたメンバーが嫁いで行かれるということで、少し寂しくはありますが、新しく築かれるお二人の歩みが祝福されますよう祈ります。


2013年9月8日日曜日

患者になりきれる人

心臓外科の名医・天野篤医師は、治療がうまくいく人、元気になれる人はどんな人か、それは「患者になりきれる人」だと言いました。


「患者になりきれる人」とは、大変な状況の中にあっても、自分の病気から目をそらさず、病気から逃げず、腹をくくって治療に向かう人。また、前向きな気持ちを失わず、あきらめず、生きることへの目標や希望をもっている人。
 

そして医師を信じて、医師と共に治療に集中し、専念する人。
 

このような患者さんは、そうでない人に比べて、すーっと回復していくことが多いのだそうです。
 

また、この医師になら命を委ねられる、と思ってもらえると、医師のほうもその思いに何としてでも応えようという気持ちが強くなり、患者さんの強い思いは、ついには医師を動かすというのです。
 

一方で、「患者になりきれない人」もいるのだと言います。
 

それは、いろいろな治療があって、迷いに迷って一つの治療方針を決めたとします。


この医師のもとで、手術を受ける、と決めますが、まだ他にももっとよい治療方法があるのではないかと考え、また迷って、ジタバタしてしまう。

 
その人は、なかなか患者になりきれず、医師との良好な信頼関係を築くのは難しいのだそうです。


今日のオープン礼拝では、聖書に登場する一人の「患者になりきれた人」を紹介しました。


その女性は、12年間病と闘い、いろんな治療を試みましたが、ますます悪くなる一方で、経済的にも、肉体的にも、精神的にも追い込まれてしまいました。そのようなときに、彼女の耳に入ってきたイエス・キリストのうわさを通して、彼女はイエスこそ自分を救ってくれる救い主、神ご自身と信じて、この方に自分の命を委ねたのでした。結果は次の御言葉の通りです。


マルコによる福音書5章25節~34節

:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますま    す悪くなるだけであった。
:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」



彼女の信仰が、イエスの内にある神の力を引き出したのです。  神は愛なり!

2013年8月27日火曜日

わたしが変われば

日曜日の礼拝では、昨年8月にイエス様を心に迎え、救いを経験された80歳代の女性が、その時の体験談を語って下さいました。


ある宗教で苦しみ、また、娘さんの病のことで悩んでいたこと。
その折に、あるクリスチャンとの出会いがあり、その姿に惹かれ、教会に行かれ、不安が和らいだこと。
その後、自宅に教会があることを知り、通い始められたこと。(千葉シャローム教会です)


教会の方々は温かく迎えてくださり、また、娘さんのためにも心から祈ってくださったこと。
そして、昨年の8月の礼拝に出席していたとき、救われなければならないのは、娘ではなく、自分であると思わされ、主の御名を呼び求めたとき、イエス・キリストが心に来てくださったこと。
イエス様が心にきてくださったとき、初めて自分が罪人であると分かり、罪の赦しを祈ったこと。
イエス様は自分でも変えられらなかった自分の心を一瞬にして変えてくださったこと。


わたしが変われば、世界は変わるという祈りを実感していること。


そして最後に信仰告白されました。
「イエス・キリストこそ、真実の神、永遠の命です」


本当にイエス様は素晴らしい神様です。





2013年8月5日月曜日

先祖を大切にすること

お盆を前にして、オープン礼拝では、「先祖を大切にすること」について考えてみました。


ご先祖とは、自分の命を生み出してくださった方です。
それをさかのぼって、一番初めのご先祖さまはいったいどなたなのでしょうか。


「進化論」という話しもありますが、聖書は、人間を創造し、生み出してくださったのは、創造主だといっています。


ルカによる福音書3章にはイエスの系図が記されていますが、それはとても興味深い内容です。


イエスから始まって、ずっとさかのぼって最初の人間アダムまで記録されていますが、その最後の言葉は「そして神に至る」とあります。


礼拝では、ご先祖を敬いつつ、その最初となられた創造主なる神様に思いを向け、神に感謝し、神の御名をたたえ、賛美しました。


「あなたの贖い主
 あなたを母の胎内に形づくられた方
 主はこう言われる。
 わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。」(イザヤ44:24)


「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ
 主の御名を賛美せよ。
 今よりとこしえに
 主の御名がたたえられるように。
 日の昇るところから日の沈むところまで
 主の御名が賛美されるように。」(詩編113:1-3)


2013年7月29日月曜日

サマースクール

土曜日、日曜日と1泊で、教会学校のサマースクールが行われました。


今回は、柏にある教会に合流させていただきました。


プールに行ったり、庭でスイカを食べて、種を飛ばしたり?、花火をしたり、楽しいプログラムも盛りだくさん。


でも、一番大切なのは、聖書の御言葉を学ぶこと。


日曜日の礼拝は、大人と子どもの合同礼拝で、子ども達がサマースクールで学んだ、御言葉を語ります。


純粋な子ども達が語る御言葉と共に神様が働いて、メッセージがストレートに心に飛び込んできて、一緒に参加する子どもから大人まで一同の心を感動で満たします。本当に感謝なひと時でした。


千葉シャローム教会では、留守を守る方々で礼拝が行なわれました。
皆さんの篤いお祈りにも感謝します!


お祈りのお陰で、子どもたちも、さらに一歩神様に近づくことができ、心も大きく成長できたと思います。






2013年7月25日木曜日

主の御名を唱える

「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 
 我らは、我らの神、主の御名を唱える。」(詩編20:8)


礼拝で語られた御言葉。


これは偉大な王ダビデの詩です。


ダビデは、すべての戦いにおいて勝利を得ました。それは彼が主により頼み、主が彼と共におられたからです。


一介の羊飼いの少年であったダビデが、いかにしてイスラエルを統一し、イスラエルの王となり、あの輝かしい黄金時代を築き得たその秘訣は、ダビデが主の御名に対する信仰に、いかに徹底していたかということです。


御名の連祷(繰り返し唱えること)は彼の力、彼の勝利、彼の最大の戦力、すべてのすべてでした。


イスラエルにおいて御名(ハッシェーム)は神ご自身にほかなりません。


御名が唱えられるところに、神はおられ、共に働いて下さるのです。


「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」(出エジプト20:24b)


千葉シャローム教会では、この聖書の信仰に従い、主の名を呼んで神を礼拝します。


「わたしは主である(文語:我は主なり)。これがわたしの名である。」(イザヤ42:8 口語訳)





2013年7月10日水曜日

水がめを置いて



















祈祷会で学んだ聖書の言葉


ヨハネによる福音書4章28節~30節

:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、  この方がメシアかもしれません。」
:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。


自らの罪深い生活に後ろめたさを感じながら、人の目に触れないように生きていたサマリアの婦人が、イエス・キリストとの出会いを経験した後、まったく新しい人のようになって、もと来た町へと向かってイエス・キリストのことを伝えるために人々の所へ大胆に出ていきます。それも、水がめを置いて。


この女にとって、水がめは生活のために一番大切なものと思われます。
それを置いて出かけていった姿は、わたしたちに大切なことを教えます。


水がめは井戸から水を汲むために用いていたもので、それは生活には必要なものですが、彼女の心を満たすものでは当然ありませんでした。


でも、イエス・キリストと出会い、イエスの本性に触れたとき、彼女の心の中に湧き出る泉が与えられたのです。


イエスは言われました。
「わたし(イエス)が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」


イエス・キリストは、人の心をいつまでも満たし続けることができるお方です。






2013年7月8日月曜日

ファミリー・チャペルコンサート













昨日のファミリー・チャペルコンサートには、教会に何度かおいでくださった方々、教会は初めてという方も出席して下さいました。親子で参加してくださった方もおられました。皆さん、ありがとうございました。


聖歌隊の皆さんの賛美もとっても良かったです。皆さん、お疲れ様!!
子どもたちの歌も、とってもかわいくて、純粋で、感動しました。


初めて来られた方が、心が洗われた、いやされた、もっと拍手がしたかったと感想を語ってくださいました。


たくさんの方においでいただきましたが、もっともっと多くの方に聞いてほしかった、というのが正直な思いです。こういう機会をたびたびもちたいと思っています。次のチャンスをお見逃しなく!!







2013年7月6日土曜日

明日















いよいよ、明日は、ファミリー・チャペルコンサートです。


天候を祝してください、と祈っていましたが、まさか梅雨があけてしまうとは。


明日も暑いようです。冷たいお茶やお水も用意していますので、ご安心ください。


皆様のおいでをお待ちしてます!





2013年7月5日金曜日

視聴覚教材

今日は、キリスト教入門講座がありました。


いつもは、マタイ福音書をシリーズで学んでいますが、今日は少し離れて、キリスト教の大切なテーマ「罪人の救い」について学びました。


聖書はイエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、人間の罪が赦され、救われるといっています。


聖書の基礎がないと、イエスが十字架で身代わりになったことと、罪人が赦されることが、どういう関係にあるのか、理解するのは難しいかと思います。


そこで、神様が旧約聖書の時代から、様々な出来事を通して、教えて下さった救いの原理の代表的な4つに注目しました。これは、罪人の救いに関する「視聴覚教材」といえます。


今日は、その一つ目の「いけにえ」についてシェアしたいと思います。


旧約聖書にあった、「いけにえ」の制度。


人が罪を犯したとき、牛や羊を連れてきて、頭に手を置き、それに罪を転嫁します。
本来は罪を犯した人自身が罪の償いとして死ななければなりませんが、動物に手を置いて身代わりにいけにえとして捧げられることで、その人の罪が赦されると神は言われたのです。


これが罪が赦される手段でした。


後に、イエス・キリストが地上に来られたとき、バプテスマのヨハネという人が、イエスを指してこういいました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。


これは、イエスという人が、すべての人間の罪の代わりに捧げられる「いけにえ」となられたということを意味しています。


イエス・キリストの十字架の意味が少し理解できたでしょうか!?










2013年6月30日日曜日

心の渇きをいやす



今日の礼拝では心の渇きをテーマにメッセージが語られました。


心の渇きって何でしょう?


詩編42編は心の渇きに対する叫びです。


「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」(詩編42編2,3節)


心の渇きは、神に対する渇きです。


イエス・キリストは心の渇きをいやすことがおできになるお方です。


イエスは言いました。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13,14)








2013年6月24日月曜日

酔生夢死

「酔生夢死」という言葉があります。


「自分がこの世に生まれてきたということを、記録するに足ることを、何もしないで、一生を終わる」という意味です。


自分はどうだろうかと考えさせられます。


はたして、この世に生を受けながら、生まれてきたということを、記録するに足ることを何もしないで、夢のように消えていく人生だとしたら、そこに意味があるのだろうか?


「人に賞賛されること」や「大きなことやること」だけを言っているのではないと思います。


目の前にいる一人の人を、心込めて大切にする、愛する。これも愛された人の心に残る大きな記録を残したのだと思います。


しかし、自分の力には限界があります。神様の力、神様の愛が必要です。


聖書には、危機に直面し、八方ふさがりで、前にも後ろにも進むことができないよう人が、神の言葉を信じて、一歩踏み出したとき、神の力を引き出し、神と共に偉大なことをし、消えることのない記録を残した人達の証しが数多く記されています。


同じ神様が生きておられて、共に働いてくださるなら、同じことがわたし達にも起こるのではないでしょうか?この世に生まれてきたという記録に足ることをすることができるのではないでしょうか?


「もし信じるなら、神の栄光を見る。」(ヨハネ11・40口語訳)





2013年6月18日火曜日

失われたものを捜して

最近更新が滞ってすみません


日曜日のオープン礼拝の内容をシェアしておきたいと思います。


ルカ福音書19章1節~10節の、徴税人ザアカイの回心の物語を学びました。


19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」



結びの言葉は、「人の子(キリストのこと)は、失われたものを捜して救うために来たのである」となっています。


「失われたもの」とは、「間違った位置にいること」を意味しています。


あるものが、本来あるべきところから逸れて、誤った場所におかれているとき、それは失われているということです。


そういうものを見つけたときには、定位置にもどしてあげればよいのですね。


今回の登場人物ザアカイは、本来のあるべきところから逸れた、失われたその一人でした。



その彼も、イエス・キリストとの出会いを通して、本来あるべきところに帰っていったのです。イエスは彼を捜し出し、イエスと共にいること。神と共にいるという定位置にもどされたのでした。そこで、宣言されました。「今日救いがこの家を訪れた」と。なんと素晴らしいイエスとの出会いでしょうか!


では、あなた自身は今、どこにおられますか?



「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ3・8)


2013年6月14日金曜日

神殿の中におられるイエス

今日は、おゆみ野で家庭集会がありました。


ルカ福音書をシリーズで学んでいます。


今日は2章41節~52節から学びました。


少年イエス(12歳)のことが記されている箇所は、他に見当たりません。
とても貴重な記録だと思います。


旅の途中で見失ってしまった両親はイエスを探してエルサレムに戻りますが、エルサレムでは、イエスは神殿の中で、学者達と話し合っていたのでした。


「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と母にしかられたとき、


イエスは答えられました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」


このとき、イエスは自分と神との特別な関係をはっきりと宣言されたのです。


神と自分とは父と子の関係にあること。神の子とは、神が人間となってこの地上においでになったということです。イエスと神とは一体です。このことをはっきりとお語りになったのでした。


イエスを神殿の中で彼らは見出しました。


それは、イエスというお方は、わたしたちの心という神殿にお住まいになるお方であることを示しています。


イエス・キリストは心の中にお迎えすることのできるお方なのです!







2013年6月12日水曜日

Like Jesus

今日の祈祷会で歌った讃美歌



わたしの願いは 主イェスのように
この世にある日を 生きてゆくこと
わたしのすべてを 主イェスにささげて
あゆんでゆきたい 主イェスのように


悩むひとびとに 主イェスのように
よろこびと平和 わけてあげたい
自分のためだけ 生きるのではなく
与えてゆきたい 主イェスのように


にくしみにかえて 主イェスのように
かぎりなくゆるす 愛を持ちたい
十字架のうえで 敵をゆるされた
祈りを知りたい 主イェスのように


「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(Ⅰペトロ 2・21)


I want to be like Jesus.



2013年6月7日金曜日

神は来て

木曜日の面談の日、今日は(というか大抵は・・・)予約もありませんので、午後は信徒の方を訪問しました。


船橋の方で、先週、家で転んで骨折してしまいました。


怪我の後ですから、玄関先で、お顔を見て、一緒にお祈りをして、帰ろうと思ったのですが、ご自分のお部屋に通して下さり、わたし(牧師)と家内と3人で、しばしお話しをする時間を持つことができました。


普段ゆっくり話すことができない分、いろいろな話し、今まで経験してこられたことを聞くこともでき、とても貴重な時間となりました。


最後にお怪我が速やかに癒されて、また、一緒に教会で礼拝をささげることができるよう、主の御名によって祈らせていただきました。以前、祈っていて、骨折した方が癒されたことがあります。イエス様の力を信じて祈りました。


教会に戻ってから、お礼の電話をしますと、わたしたちが帰ってから、しばらくして、ふとしたことから、今まで上がらなかった腕が上がるようになったことに気がついたというのです。


「こんなわたしの家にも神様が来てくださった」と、いうことを感じて、涙が止まらなかったと、話しておられました。


では、「すっかり良くなって教会においでくださいね」と、いいますと、「間もなく行きます」!との元気な声が返ってきました。主に感謝します。



「『神は来て、あなたたちを救われる。』
 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」(イザヤ35・4-6)





2013年6月2日日曜日

選び

”あなたがわたしを 選んだのでなく
 わたしがあなたを あなたをえらんだ”  讃美歌から


礼拝では、神様の救い、神様の選び(憐れみ)がどれだけ貴いことなのか、学ばせていただきました。


「あなたがたは・・・肉によれば異邦人であり、・・・キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(エフェソ11,12)とまで言われた、わたしたち。


ちなみに異邦人とは、イスラエル人以外の人のことを言います。


もともとは、本当の神様を知らず、救いを知らなかった者でしたが、ついに神様の救いはわたしたち異邦人にも向けられていきました。


「神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び出された」(使徒15:14 口語訳)と。


礼拝後は、教会のメンバーの皆さんと、6月16日のオープン礼拝のチラシを配りに行きました。
今週、来週とご近所の皆さんのもとへ、お届け中です。


チラシをご覧になった皆さん! ぜひ足を運んで下さい。喜んでお迎えします!







2013年5月26日日曜日

主は助けて下さる

礼拝で繰り返し語られた言葉

詩編20編6節(口語訳)

「今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。主はその右の手による大いなる勝利をもって/その聖なる天から彼に答えられるであろう。」


とても慰めに満ちた言葉です。


油注がれた者とは、任職を意味していて、神様が選び出して下さった人のことです。


ペトロは、イエスの弟子であったにも関わらず、イエスが人々に捕らえられたとき、3度もイエスを知らないと言って、イエスを裏切った人でした。


けれども、神様はご自分が選び出した人を助けて下さいました。


聖霊を受け、イエス・キリストを心に迎えたペトロは、新しくされ、彼を通して、偉大な神様の救いが実現していきました。


わたしたちがどんなに弱くても、主イエス・キリストは助けてくださるのです。強めて下さるのです。


神様の救いはなんと素晴らしいことでしょう!





2013年5月23日木曜日

耳になる

毎週木曜日は、牧師との面談日にしています。
この日は、なるべく集会などの行事を入れないようにします。
面談がない日は、作業をしたり、訪問する日にしようと努めています。


今まで、初めて教会に来られたかたも含めて何人かの方の相談を受けたり、お話しを伺ったりしました。


そのたびに、以前、ある教会の先生が、自分は話しを聴いてほしい人がいれば、その話しを聞く耳になりたい、と話された言葉を思い出します。


今日は、普段教会に通っておられる方がお話しに来られました。


できる限り、心を傾けてお話しを聞かせていただきました。


地域の方もぜひ、お話しをする機会をもってほしいなと思います。
お金は要りませんし、信仰を強要することはありません。
もちろん、秘密は厳守します。


話しても無駄だ、なんて思わないで、心の内をお話ししてみませんか?


イエス・キリストは言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)



2013年5月22日水曜日

実を結ぶ


祈祷会では、実を結ぶということを学びました。


実を結ぶ、ということは実りある人生を送るともいえると思います。


教会では、わたしたちの内面が神様の力によって清められ、聖なる者とされること、また、文字通り救いを経験してクリスチャンとして加えられていくことも、実を結ぶといいます。神様が願っておられる出来事が、教会を通じて実現することも実を結ぶといえると思います。


そして、イエス・キリストはご自分を「ぶどうの木」といいわたしたちを「ぶどうの枝」と言い、枝が木につながっている間は、実を豊かに結ぶことができると言われました。


枝が木から離れたら、枯れてしまいますね。


イエス・キリストは、豊かに実を結びたいのなら「わたしにつながっていなさい」と今日も招いておられるのです。



「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)



 

2013年5月20日月曜日

イエスの名が強くした

19日の日曜日は、東京世田谷にあるソフィア教会で関東(東京、千葉、神奈川、山梨)にある教会のメンバーが集まってペンテコステ聖会が開催されました。


午前・午後と2回の集会で、とても恵みに満ちた集会となりました。


特に午後は、台湾の婦人が語られた、23年前ではありますが、自身の経験した救いと癒しの証しは、聞く人に神様は今も生きておられる真実なお方であるとの信仰を与えるのに十分でした。


過去の出来事のようではなく、その感動、その喜びが今も彼女の内面に生き生きとして現されたからです。


メッセージで語られた言葉の通りでした。


「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」
                                             (使徒言行録 3章16節)


「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマの信徒への手紙10章13節)



2回の聖会を感謝します!


2013年5月18日土曜日

希望をもち続ける



昨日はおゆみ野の家庭集会でした。


こちらでは、ルカによる福音書を中心のテキストにして学んでいます。


この日はルカ2章25節~38節までです。


イエス・キリストが誕生して40日経ったあと、ヨセフ、マリアに抱かれて、神殿に詣でたときの出来事で、今日は神殿で救い主のおいでを待ち望んでいた二人の老人シメオンとアンナに注目しました。


その1人、アンナは、わずか7年間で若くして夫と死に別れ、84歳になるまでやもめとして暮らしていました。数々の悲しみを知り尽くした人だったでしょう。けれども彼女は年老いてもなお希望を失わないで、神殿を離れず、救い主のおいでを待ち望みながら祈り続けていたのでした。


神様のお導きと憐れみによってついに、主イエス・キリストと出会い、この喜びを人々に伝える人に加えられたのでした。


聖書には、「人生の真の目的と目標(神こそそれである)」(マタイ1:21 詳訳)とあります。


人生の目的と目標を見出した彼らの喜びはどれほどだったことでしょう。


家庭集会を開いてくださっている方は、母子でクリスチャンです。お母さんは今年84歳。ご主人は結婚8年目で急死されたとのこと。数々の悲しみや試練を通ってこられました。


アンナと自分が重なって仕方がなかったとしみじみと語っておられました。


でも、そのおばあちゃんもかつて、イエス・キリスト様と出会い、人生が変わりました。
そして、今も、どのようなことがあっても、神様の恵みは変わることはないと、神様に感謝しつつ、希望を持ち続けている姿を見て、感動しました。


もう1人のアンナがここにいました。これからの歩みが祝されますように!




 

2013年5月15日水曜日

希望をもって喜び

祈祷会では、次の日曜日のペンテコステの聖会のために祈りをささげました。


「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:11,12)


わたしたちの信仰の先輩である、大槻筆子先生は、かつて50数年の信仰生涯を振り返えると、いつもこの言葉が心の支えとなったと言っておられました。


いろんな困難に直面し、「ようやく一つの山を越えたと思いますと、また目前にさらに高い山がそびえているのです。その時こそこのお言葉が一番の支えになりました。

『どんな試練・困難にも気落ちせず、山の彼方に希望を持ち、祈り続けなさい。私はいつもあなたがたと共にいる』と主は励まして下さいました。

・・・信仰は決して失望に終わることはありません」と。


どんなときでも、希望をもって喜ぶことができる! これこそ信仰の世界の素晴らしさです。




2013年5月14日火曜日

ファミリー

 

日曜日のオープン礼拝は、母の日ファミリー礼拝でした。

 

その最後に、秋に結婚することになっている方達の婚約式を行いました。

一人は、千葉シャローム教会のメンバーです。

 

集われた多くの方達の祝福を受けて、とても感動的なひと時でした。

教会は神の家族(ファミリー)です。

誰かに嬉しいことがあれば、みんなで喜び、悲しいことがあれば、みんなで悲しむ。そんな教会でありたいと思います。

 

婚約されたお二人に神様の祝福が豊かにありますように。

 

2013年5月12日日曜日

母の日ファミリー礼拝



5月の第2日曜日は母の日です。実は、この母の日を祝う習慣は教会で始まったのでした。


今日は、母の日ファミリー礼拝ということで、日頃のお母さんへの感謝をこめて、子どもたちも一緒に出席し、讃美と演奏をプレゼントしました。


家庭の中で姿を隠しながら涙を流して祈り、家族の幸せを願いながら、家族の知らないところで犠牲を払ってくださっているお母さんに感謝します。


お母さんがいてくれるからこそ、夫は、また子ども達は無事に過ごすことができるのです。
お母さん方の上に神様の豊かな祝福がありますように。


時には疲れきってしまうこともあるでしょう。様々な悩みに苦しんでいるお母さんもおられるかも知れません。


どうか神様が、お母さんたちの愛となり、力となり、信仰となり、勇気となって一人ひとりを支えて下さいますよう、祈ります。


愛よ来てください。 神は愛なり!





2013年5月9日木曜日

悲しむ人

今日の午後、先月娘さんを亡くされ、教会で葬儀をさせていただいた方のお宅を訪問しました。


お母さんと、ご主人と共にお祈りをすることができました。


「元気なときは喧嘩ばかりしていたように思うけれど、今は、喧嘩する相手がいないことが寂しい」「自分のほうが年上だから、代われるものなら自分が代わりたいと思った」との言葉から、お二人の寂しさ、悲しさが痛いほど伝わってきました。


ただ、亡くなられたときのお顔が、無念の表情ではなく、地上の走るべき道のりを走り終えたような表情であり、また生前神様のことを知り、最後はすべてを神様にお任せしているお顔だったことが、本当に大きな慰めとなっていました。


愛する者を失うという悲しみは、人の言葉や励ましは何の力もないことを改めて教えらました。
同時に慰め主である神様が、ご家族の上に豊かな慰めを与えて下さるように願いました。


神様によるならば、悲しんでいるところに、真実の慰めがあります。


「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5・5)





2013年5月8日水曜日

もし信じるなら





「もし信じるなら、神の栄光が見られる。」(ヨハネ11:40)


神様を「信じる」とは、全部を神様に任せて、自分には何も期待しないことだと教えられました。


自分に期待し、自分の力を頼っている間は、わたしたちは本当の意味では神様を必要としていません。だから、神様も働こうとなさいません。


「神様あなたが必要です。」


そのように心から叫ぶとき、神様は喜んでご自分の業を行なってくださるのです。


預言者エリヤが天に上げられたとき、エリヤの後継者エリシャは、今までの自分を脱ぎ捨て、エリヤの内に宿っていた神を頼りとしました。


その時、目の前に立ちはだかっていたヨルダン川は真っ二つに割れて、エリシャは川の底を歩いて渡ることができました。


彼は神様を信じた。そして神様が神様として働かれる、まさに「神の栄光」を見たのでした。


2013年5月1日水曜日

しののめを呼びさます




今日の祈祷会の前半は、月に一度の聖書研究です。
聖書に記されている、イエス・キリストの再臨について学びました。


イスラエルの偉大な王ダビデは、詩編の中でこのように歌っています。


「神よ、わたしの心は定まりました。
 わたしの心は定まりました。
 わたしは歌い、かつほめたたえます。
 わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
 わたしはしののめを呼びさまします。」(詩編57・7-8 口語訳)


彼は「しののめ呼びさまします」という言葉で「義の太陽」である「救い主(メシア)」を待ち望む祈りをささげました。これが神様の約束だったからです。


わたしたちもダビデの歌と思いを合わせ、教会に託された祈りを、ささげました。


「アーメン、メシアよ、来てください」と。


2013年4月28日日曜日

十字架は立てり


















名取市閖上の被災地を訪問したとき、津波で流された教会跡地に連れて行ってもらいました。


シーサイドバイブルチャペルという教会の十字架塔だけが傾きながらも残っていたといいいます。
震災の約1ヵ月後に、地域の精神的復興を願って再建されました。


すべてのものを跡形もないほど押し流してしまった津波ですが、この十字架だけは踏みとどまってくれました。


十字架による救いが今も変わらないことを力強く語り続けてくれます。


今日の礼拝で聖歌隊が讃美した讃美歌のように。



見よや十字架 ハレルヤ!ハレルヤ!
常に立てり ハレルヤ!ハレルヤ!
陰府(よみ)の風は 吹き荒れど
揺るぎもせで 十字架は立てり

勝利の十字架 ハレルヤ!ハレルヤ!
高く立てり ハレルヤ!ハレルヤ!
贖われし 主のみ民の
感謝の尽きぬ 十字架は立てり

ハレルヤ!ハレルヤ! 十字架は立てり
ハレルヤ!ハレルヤ! 永遠までも


2013年4月24日水曜日

命の夜明けへ

今日は、先週の土曜日に召された方の葬送式が教会で行なわれました。


その方は15年にわたる闘病生活の末に、51歳の若さで、ついに天にお帰りになられました。


1年半ほど前、初めてお会いし、病の回復のために祈り続けておりました。その間、娘さんの回復を祈っておられたお母さんが、先にイエス・キリストを心に迎え、救いを経験されました。


お母さんは、すべてをお任せできる神様と出会い、とても心に平安を与えられたとおっしゃっておられ、以来ほぼ欠かさず毎週の礼拝と祈祷会にしゅっせきしておられました。


そのお母さんが娘さんと祈っているとき、お母さんの心の中におられる主イエス・キリスト様は、娘さんの霊魂に触れてくださったのでしょう。


召される直前、今まで抱えていた死への恐れがなくなり、静かに、平安のうちに息を引き取られたのでした。


その亡くなられたお姿は、死の暗闇を少しも感じさせない、命の夜明けへそのものでした。


ご家族のほとんどはクリスチャンではありませんでしたが、ご本人の願いを尊重して教会で葬儀を行なわせていただきました。


時間が経つにつれ、その方の顔がますます美しくなってくるので、ご遺族の方々も驚いておられました。「写真にとってもいいですか?」そういって、シャッターをきっておられました。


イエス・キリストが語られた言葉そのもののようでした。


「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」


彼女は死んで終わったのではなく、永遠の命に羽ばたいていったことを信じます。


ご遺族の上に、神様の慰めがありますように。










2013年4月21日日曜日

心の復興


4月下旬というのに、朝から雪が降り続けていました



 
 
 
 











今日は、宮城県仙台市にある仙台ベタニヤ教会で午前・午後2回メッセージを語らせていただきました。
 
 
前日から仙台入りし、神学校で同期だった牧師に案内されて、近隣の被災地を短い時間でしたが見て回りました。震災から2年以上もたっていますが、津波の爪あとはいたるところに残されており、そのすさまじさ、すべてを奪われた人々の痛み、悲しみを思うと言葉がありませんでした。
 
 
仙台の教会は海から離れており、また高台で津波の被害はありませんでしたが、建物の中はめちゃくちゃになっていたそうです。
 
 
集会では、震災については何も語りませんでした。というよりも語れませんでした。ただただ、人の言葉や慰めでなく、神様の愛と憐れみ、慰めがお一人お一人にありますようにと願いながら、一言一言み言葉を語らせていただきました。
 
 
仙台ベタニヤ教会でしかできない、地域の人々の心の復興が実現することを願いつつ、帰ってきました。
 
 



 

2013年4月19日金曜日

ベツレヘムへの旅




午後はおゆみ野の家庭集会がありました。
ルカによる福音書を中心に学んでいます。

今日は2章1節~7節でした。


「ヨセフもダビデの家に属し、・・・ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」(4節)


ローマ皇帝アウグストゥスによる住民登録(戸籍調査)が命じられ、人々は自分の故郷の町へ帰って登録を行ないました。


ヨセフ、マリアもダビデ王の家系であったため、ダビデの町・ベツレヘムへの約112kmの旅に出かけます。


そして、ベツレヘムでマリアは、月が満ちて男の子(イエス・キリスト・・・メシア)を産みました。


これは、メシアはベツレヘムで生まれると言われていた預言(ミカ書5:2)の実現を意味します。


この預言の実現は、当時、世界を支配していたのは、ローマ人でしたが、その背後にあって現実にこの世を、歴史を司っておられたのは神であることをわたしたちに教えています。


この家庭集会は午前中にあるため、集会が終わると、皆さんと一緒に食事をしながらいろいろお話します。集会はもちろんですが、この時間もとても貴重です。


いつもおいしい食事を感謝します。また、持ち寄って下さった皆さん、ありがとうございました!



2013年4月14日日曜日

渇きを覚えている者は





今日は、千葉シャローム教会献堂3周年を記念した春の特別聖会でした。
東京のソフィア教会の牧師がおいでくださり、メッセージを語って下さいました。


午前に続いて行われた午後の聖会では、ヨハネによる福音書5章1節~9節のベトザタの池で行われた38年病気で苦しんでいた男の癒しの箇所が語られました。


「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」(6節)


彼は、良くなりたいからこそ、奇跡の池、ベトザタの池のほとりに居続けたわけですが、自分自身に奇跡が起こることを経験することなく、歳月が流れていく間にマンネリ化となり、彼の良くなりたいという本当の願いは次第に薄れてしまったのです。


そんな彼に、イエス様は問いかけられました。「良くなりたいのか。」・・・本当に直りたいのか?


この問いに、目が覚まされ、一同心からイエス様に渇きを覚えて、イエス様を必要として御名を呼びました。そこに素晴らしい神の恵みが注がれてきました。


この集会で、4年生の男の子の心にイエス様はおいでくださり、救いを与えて下さいました。
自分でもイエス様が来てくださった、聖霊を受けたことが分かったとその場で話してくれました。


イエス・キリストは本当に生きておられます。呼べば応えてくださいます。


「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」(イザヤ55:1)
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くいますうちに。」(同55:6)


2013年4月9日火曜日

入学おめでとうございます
















今日は、小学校の入学式でした。新入生の皆さん、ご家族の皆さん、ご入学おめでとうございます。すでに中学、高校の入学式を終えられた皆さんもおめでとうございます。
新しい門出の祝福を祈ります。


教会では、子ども達の心の成長ねがって、月に2回、ハッピーサンデーを行っています。


さて、おとといの日曜日の午後は、そのハッピーサンデーの日でした。


今は、5月の母の日に向けて、リコーダーの演奏とサンクスカードの作成を始めています。


5月12日(日)のオープン礼拝は母の日ファミリー礼拝の予定です。


お母さんへの感謝をこめて、いろいろと準備しています。お楽しみに!


次回は4月28日(日)14:30~16:00の予定です。ぜひおいでください!





2013年4月8日月曜日

信じる者に

昨日はオープン礼拝でした。
イエス・キリストの復活を祝う礼拝をおささげしました。


心配していた雨も上がり、強風の中、皆さんよく来てくださいました。
土曜日に近畿に出かけておられた信徒の方は、新幹線、電車が止まってしまい、何時間も足止めされながら、千葉の自宅に帰ってきたのは夜中の1時だったとのこと。


疲れていたでしょうに、礼拝に来て、聖歌隊で賛美もささげて下さいました。
神様が癒しとなり、力となってくださいますように。


礼拝で語られたみ言葉の一部をご紹介します。

ヨハネによる福音書20章24節~29節


:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に   釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


信じることができない人は、ある意味、分からないから、納得できないからなのかも知れません。納得できさえすれば、信じる人になることができるのかも知れません。


トマスという弟子も、ある意味そういう人だったと思います。


復活されたイエス・キリストはそのトマスにも出会ってくださいました。


主と出会ったとき、トマスは信じる者になっていました。


主との熱い出会いがいつもありますように。


2013年3月28日木曜日

イエスさまを心に迎えると




先日の子どもたちの集会で3年生の女の子が、イエスさまを心に迎えました。
神様であるイエスさまが心にお宿りになるので、これを「聖霊を受ける」と言っています。


そのお友だちのお母さんからお聞きしたのですが、聖霊を受けたその日から、その子の生活が変わったといいます。妹からも、おねえちゃんやさしくなった・・・、とびっくりされているそうです。


聖書には、イエスさまを心に迎えると、神様の霊である聖霊は、その人の心に九つの実を結ぶといっています。


その実は「愛」「喜び」「平和」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」です。


もう、早速、実を結び始めていることを聞き、神様を讃美しました。


神様のなさることは、本当に素晴らしいです!


2013年3月26日火曜日

あなたが呼べば




今日は、東京世田谷にある教会で、関東地区の合同の子ども達の集会が行われました。


集会では、ルカによる福音書18章35節~43節の、エリコの盲人(マルコ福音書にはバルティマイという名前)とイエスとの出会いを学びました。


「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい。」「主よ、見えるようになることです。」


彼は、エリコ街道を歩かれるイエスを、救い主として、それだけではなく主(神)として信じて叫んだのです。この彼の叫び声を聞いて、イエスは立ち止まられ、彼の願いに応えて彼の目を開かれました。


参加した子ども達と心の目が開かれて神様を見ることができるよう、神様を心に迎えることができるよう、バルティマイのように呼び求めました。


昨日も、今日も変わることなく生きておられる主イエス・キリストは、子ども達の願いに答え数名の子の心におとどまり下さいました。


千葉シャローム教会から参加したお友だちの心にも、イエス様がおいで下さいました。
神様の愛に感謝します。


「あなたが呼べば主は答え
 あなたが叫べば
 『わたしはここにいる』と言われる。」(イザヤ58・9)

2013年3月24日日曜日

成し遂げられた





礼拝では、京都で行われた春の聖会でのメッセージを「成し遂げられた」をDVDで見ました。


「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
                                        (ヨハネによる福音書19:30)


イエス・キリストの十字架によって、わたしたちの救い、癒し、清め、神様の救いのご計画はすべて完了したのです。


この恵みの中にとどまりさえするならば、神の約束はすべてわたしたちのうちに実現する。


何という恵みでしょうか。アメイジング・グレイスです。


普段の礼拝でしたが、初めて礼拝においでになる方もおられました。これも大きな喜びでした。


2013年3月23日土曜日

天国行きの切符




午後に栄光クリニック2F(旧教会)で家庭礼拝がありました。


最初は「天国行きの切符」についてお話しました。
新約聖書エフェソの信徒への手紙1章13節、14節からです。


「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」


聖霊が天国を保証してくれる切符ということを言っています。
聖霊は、三位一体の神様の一つの人格(位格といいます)で、聖霊は神様のことです。


この聖霊を心に持つことが、天国行きの切符を持つこで、死を迎える時がきても、天国に帰っていくことが分かるので、もう死に対する恐れはありません。


天国行きの切符を求めてみないでしょうか?









2013年3月21日木曜日

ハスの株




ご近所で、最近教会に何度か来てくださった方から、ハスの株を分けてもらいました。


大きめのプランターにハスの根(いわゆる”れんこん”ですね)をねかせ、土をかぶせます。
暖かくなるにつれて、芽はぐんぐん伸び、夏の日差しをいっぱい受けて、花を咲かせるとの事。


どんな花を咲かせてくれるのか、楽しみです。


2013年3月20日水曜日

旧約と新約

毎年春に京都で聖会が行われ、全国から牧師・先生がたをはじめ、各地の信徒の方々が集まり、礼拝をささげます。


その最後に、それぞれが任地へと派遣されていきます。わたしも再び千葉シャローム教会に任命を受け、遣わされてきました。


今日は、遣わされて最初の祈祷会です。


さて、次の日曜日から、イエス・キリストが十字架にかかられた日を記念する受難週が始まります。


今日は、それに先立ち、旧約聖書にしるされている過越しの祭の意味を学びました。


430年にわたってエジプトで奴隷となっていたイスラエル人が、エジプトを脱出する前に行ったのが過ぎ越しでした。


1歳の小羊を殺し、その血を入り口の鴨居と柱に塗り、羊は火で焼いて残りなく食べる等が命じられています。
神様が命じられたこれらのことを信じて行ったとき、神による裁きは過ぎ越されたのでした。


そして、ついにイスラエル人はエジプトから脱出することができたのです。


実は、この旧約の出来事は、イエス・キリストを象徴していると考えられています。


殺された小羊とは、十字架の上で血を流し死なれたイエス・キリストを象徴しています。
人々が小羊の血によって、神の裁きから逃れ、奴隷となっていたエジプトから逃れたように、イエス・キリストの十字架は、罪の奴隷となっている人間を、罪の世から脱出させるためだったのです。これがイエス・キリストによる救いです。


旧約聖書と新約聖書は、一貫した関わりがあります。このような見方で聖書を読んでいくと、とても立体的になると思います。聖書はとっても奥深いです。






2013年3月13日水曜日

芝貼り















日曜日に、園芸部の方を中心に有志の方々と一緒に庭の芝貼り作業をしました。


昨年末から、土を耕し、石や根を取り除き、腐葉土を混ぜ、土を踏み固め、ようやく芝を貼るところまでたどりつきました。


青々とした芝生の庭が目に浮かびます。
小さな子ども達にも遊んでもらえますね。


強風、黄砂が飛ぶ中でしたが、皆さんありがとうございました!!

2013年3月12日火曜日

イースターエッグつくり



















日曜日のハッピーサンデーでは、イースター(復活祭)を先取りして、イースターエッグつくりに挑戦しました。


クレヨンでたまごの殻に絵を描き、それを食紅の液で染めます。


みんな思い思いの絵を夢中で描いていました。


また、この日は、母の日に向けて演奏の練習を始めました。
まずはリコーダーの練習です。今日は5,6年生が中心になって練習をしたので、あっという間に吹けるようなりました。これなら、もっと難しい曲もいけるかも知れません。


楽しみです!


2013年3月11日月曜日

愛のみ手の中

すこやかに過ごす日々も
病に苦しむ日々も
父なる神様の
変わらない愛のみ手の中


喜び唄う朝も
涙を流す夜も
父なる神様の
変わらない愛のみ手の中


おごり高ぶる時も
悔いくだける時も
父なる神様の
変わらない愛のみ手の中


           ~ 瞬きの詩人・水野源三 ~


東日本大震災で犠牲になられた方々のために、被災地の方々のためにお祈りします。
お一人お一人が、神様の変わらない愛のみ手の中にありますように。

2013年3月10日日曜日

美徳以為飾





















今日はオープン礼拝でした。


聖書を読んだサムライたちという映像で取り上げられていた、新島襄の妻、新島八重の生涯に注目しました。


新島八重は、会津戦争で活躍した人物として、知られていました。女性ながらに銃と大砲を操って「新政府軍」と戦った勇敢な女兵士、あるいは白虎隊の少年隊士に銃を教えた女性として、小説やドラマなどで取り上げられてきました。


「会津のジャンヌダルク」と呼ばれたゆえんです。


4年ほど前にその彼女のが「初代ハンサムウーマン」としてテレビで紹介されてから、もっぱらハンサムウーマンとして知られるようになりました。


キリスト教と出会い、新島襄と出会い、ついにクリスチャンとなった八重が晩年に書いた書があります。


「美徳以為飾」(美徳をもって飾りと為す)という言葉ですが、これは新約聖書からきているといわれています。


ペトロの手紙 3章3節、4節(口語訳)

3:3 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
3:4 かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。


人間にとって本当に大切なものは、「見えるもの」(外見や外面)よりも「見えないもの」(中身やこころ)であって、人間の本当の美しさは、イエス・キリストによって清められた品性、内面の輝きにあることを教えています。


人は外面だけを評価しがちですが、神は心の中をご覧になられます。その心の中を見ておられる神をいつも意識して生きる、これが八重の生き方だったのだと思います。


そのような生き方を夫の新島襄は、ハンサムな生き方といいました。


ハンサムに生きる。そのような生き方に近づきたいと心から願います。


2013年3月9日土曜日

オープン礼拝とハッピーサンデー
















明日は、3月のオープン礼拝です。


キリスト教的新発見! 目からうろこシリーズ

「聖書を読んだサムライたち」の映像を通してご紹介。


日本が大きく変わろうとしていた明治期に、新たな時代の扉を開いていった女性たちの中から新島八重にスポットを当て、彼女の生き方を大きく変えたものに注目します。


皆様のおいでをお待ちしています。


午後からは、子ども達を招いてのハッピーサンデーです。
幼児から小学6年生までのお友だちが集まる楽しい集いです。

明日は、一足先にイースターエッグつくりをします。

午後2時半から4時くらいまで

ぜひきてください!


2013年3月8日金曜日

マリア賛歌

おゆみ野で家庭集会がありました。

この家庭集会では、ルカによる福音書を学んでいます。

今日はイエスの母となったマリアが歌った詩歌です。

このマリア賛歌は冒頭の「あがめる」という言葉のラテン語「マグニフィカト」と呼ばれています。

ルカによる福音書1章46節~55節

 :46 そこで、マリアは言った。
 :47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 :48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
 :49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
 :50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
 :51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
 :52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
 :53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
 :54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
 :55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マリアが受けた祝福は、救い主の母となるという素晴らしいものでしたが、同時にやがて自分から生まれた息子が、救い主として、人類の罪の身代わりとなって十字架にかかって死ぬことをも受け入れなければなりませんでした。

そのような中で神様を喜びたたえている彼女の姿から、神様に対する信頼、大きな信仰をみることができます。






2013年3月3日日曜日

神のいのちに生きるよろこび

礼拝で語られたみ言葉

ルカによる福音書7章11節~17節

 7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
 7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
 7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
 7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
 7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
 7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
 7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

ナインのやもめの一人息子の復活の出来事。

それは、罪によってもたらされた死の世界、悲しみの世界からの脱出。

イエスによるなら、それは可能です。

2013年2月27日水曜日

聖書の預言

毎月一回、水曜日の祈祷会の日を用いて、聖書研究会を開いています。


難しいことではなく、聖書を詳しく学ぶ時間です。


今年は、イエス・キリストの再臨について学んでいます。


聖書の中には、やがて起こる将来のこと語る預言が記されています。


これは預言という文字を使い、「~~~の大予言」とは意味が異なります。
預言者といわれる人達が神が語られたこと、見せられたことを書き記したもので、起こるのか、起こらないのかわからないあいまいなものではなく、必ず実現するものです。もう既に実現した出来事も含まれています。


そして、イエス・キリストが再びおいでになるということを記している箇所が、旧新約聖書をあわせると、1800回以上に上ると言われています。


それだけ、イエス・キリストの再臨というテーマは、とても大切なメッセージということではないでしょうか。


「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(Ⅱペトロ1:19)



これからも、聖書の預言に注目していきたいと思います。




2013年2月24日日曜日

十字架は今も

















日曜日の礼拝では、初めて教会においでになられた方もありましたので、分かりやすい聖書のメッセージが語られました。


イエス・キリストの十字架は、天国への架け橋です。約2000年前に、イエス・キリストは十字架にかかって、全人類の罪の身代わりとして死んでくださいました。そしてイエス・キリストの十字架を自分の罪のためと信じる人には、罪のゆるしと、永遠の命を約束してくださいました。だれでもイエスを信じて、この十字架の橋を渡るならば、天国へ行くことがゆるされるのです。


ある人は、イエス・キリストが十字架にかけられたのは2000年以上も前であって、今の自分と何の関係があるか?と言います。


今から25年ほど前に完成した瀬戸大橋は、道路と鉄道を併用する橋としては世界一長いそうですが、当時の人だけでなく、25年後の今日も多くの人に恩恵をもたらしています。


50年後に生まれた人も、その恩恵を受けることができるでしょう。自分が生まれる50年も前にできた橋なのだから自分とは何の関係もない。だからこの橋を渡るわけには行かない、などという人はひとりもいないでしょう。


およそ2000年前にかけられたイエス・キリストの十字架という天国への架け橋は、今も開かれて、すべての人の前におかれています。


「すべて十字架の側を通り過ぎるものよ、それはあなたにとって無関係なことでしょうか?」
                 
                     (ジョンス・ステナー作曲「クルシフィクション(十字架)」より」


2013年2月20日水曜日

呼びさます





 




















「りんごの木の下で、わたしはあなたを呼びさました。」(雅歌8:5)


りんごの木とは、十字架の木を象徴しています。


わたしたち人間の心が、真実の愛に目覚めるのは、十字架のもとに立ち、十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎ見るときです。


また、わたしたち人間の心には、「立派な人になりたい、聖人になりたい」という思いが、火種のように宿っています。その火種が燃え上がるのもまた、十字架の上に愛に死なれたイエス・キリストとであったときです。


十字架のキリストと出会い、十字架のキリストの愛は、
わたしたちは真の愛を教え、人間として生きる意味を教えてくれます。


愛がないと感じたとき、生きる意味を見失ってしまっているとき、十字架のもとにきませんか。
神の愛は、きっとわたしたちの心を呼び覚ましてくださるでしょう。

神は愛なり!




2013年2月18日月曜日

あなたのためにこうなった



 
 

 
 
ドイツの青年貴族、ツィンツェンドルフ伯は、莫大な財産を持ち、贅沢な暮らしをし、自分の楽しみだけを追い求める毎日を過ごしていました。
 
 
ある日、彼が美術館を訪問し、そこで思いがけず出会った十字架にかけられたキリストの聖画を見つめていると、彼に語りかけられるキリストの声を聞いたのです。
 
 

「わたしはあなたのためにすべてのものを犠牲にしたが、あなたはわたしのために何をしただろうか」と。
 
 
神に背を向けて生きてきた彼のためにさえ、身代わりに十字架にかかられたキリストの愛が彼を圧倒し、その瞬間、かれは180度の回心を経験したのです。
 
 
彼はもてる財産を神と人々のためにささげ、自分自身を神様にささげたのです。
 
 
やがて、彼はモラビアン派(兄弟団)という教団を起こし、全世界に宣教師を派遣し、キリストの愛を伝えていったのです。
 
 
彼に語りかけられた十字架のキリストのみ声が、聞こえてきます。
 
 
「わたしはあなたのためにすべてのものを犠牲にした(十字架の姿にまでなった)が、あなたはわたしのために何をしただろうか。」
 
 
この神の愛に、わたしたちはどう応えたらいいでしょうか?
 
 

2013年2月15日金曜日

キリストに導く準備

おゆみ野で家庭集会がありました。

今年から、ルカによる福音書を学び始めています。

メシア(救い主)の先駆者である、バプテスマのヨハネの誕生の箇所に注目しました。

ヨハネの父であり祭司であったザカリアは、不思議な神様の導きによって生まれた幼子が、メシアの到来のための道を備える使命を与えられたことを悟って、預言しました。

「1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
 1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。
 1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が 我らを訪れ、
 1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」
                                           (ルカ1:76-79)

ヨハネは人々をメシアのもとに導く準備をしました。
その働きは、クリスチャンたちに受け継がれ、今も続いています。

振り返るとなんと多くの方の祈りに支えられて、キリストのもとに導かれたことでしょうか。

よく見たら、もう目の前に、キリスト共に歩む、平和の道が開かれています・・・。

2013年2月11日月曜日

春よ、来い

昨日は、2月のオープン礼拝、午後はハッピーサンデーが行われました。

 

オープン礼拝のテーマは「春よ、来い」

ある詩人は雪が溶けると「春になる」と言ったそうです。

冷たい冬の季節が続きましても、必ずそのあとには春がきます。

今、人生の冬の時を生きている方があるかもしれません。でも、暖かな春の日差しのようにわたしたちの心を照らしてくださるイエス・キリストがおいでになられたら、わたしたちの心にも、春がこないでしょうか。

春よ、来い、早く来い! すべての人の家庭に、すべての人の心に!

 

ハッピーサンデーでは、バレンタインデーにちなんで、チョコのブラウニーをみんなで作りました。

参加してくれたお友だちは5歳から5年生と年齢に幅がありましたが、大きいお友達が小さい子のお世話をしながら、仲良く作ってくれました。生地ができたら、それらをオーブンへ! 焼きあがるまでの時間は、賛美を歌ったり、お話を聞きます。

バレンタインデーの始まりとなった、聖バレンタインの紙芝居を見ました。

聖バレンタインは、愛の聖人と言われ、3世紀後半、ローマ帝国がまだキリスト教を受け入れていない時代に生きた人で、キリストの愛の精神を人々に伝えるために奔走した人です。その精神に従い抜いたがゆえに、ローマで捕えられ殉教していきます。このキリストへの愛に生き、死んでいったバレンタインを聖バレンタインと呼ぶようになりました。バレンタインの処刑された日が2月14日だったのです。これが聖バレンタインデーです。

子どもたちにはそこまで詳しくは話しませんでしたが、わたしたちもバレンタインさんのように、人に愛の言葉、優しい言葉をいつもかけられる人になれるように、と一緒にお祈りしました。

 

お話しを聞いているうちに、隣の厨房からは、チョコレートのいい香りが漂い始め、気持ちはそちらに行ってしまったかもしれませんね(笑)

最後に出来上がったブラウニーをみんなで美味しくいただきました。とっても良くできていましたよ!

 

2013年2月7日木曜日

信仰の遺産

 

今日は、夫婦で誉田にある施設にお住まいの老先生(伝道師)を訪問しました。

一時間ばかりの短い交わりでしたが、先生の内にある深く、また力強い信仰の息吹を吹き込まれて、わたしたちの心は生かされ、強められました。

先生の長年に渡って培ってこられたもの。それは信仰の遺産です。しっかりと受け止めさせていただきたいと思います。

このようなひと時を与えてくださった神様に、そしていつもあふれる愛と笑顔で迎えてくださる先生に心から感謝します。

 

2013年2月6日水曜日

愛に生きる


祈祷会のみ言葉の一部をご紹介
 
 5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
 5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
 
                           (Ⅱコリント51415)
 
 
十字架の上で死なれたキリストの愛が、わたしたちをキリストのように愛に生きるようにと駆り立てます。 神は愛なり!

2013年2月2日土曜日

新しい基準

金曜日のキリスト教入門講座は、しばらく続けていたモーセの十戒シリーズを終えて、再びマタイによる福音書に戻りました。

ユダヤ人たちは旧約の律法を、心を尽くして守ってきました。
律法は外側に現れた罪を指摘するものでした。

けれども、イエス・キリストはさらに新しい基準を定められました。

行いだけではなく、その心の中における罪に目を向けられたのです。

心の中で、誰かを憎いと思う罪、あんな人はいなければと腹を立てる心の罪。それはらは人を殺した罪と同じだと言われるのです。

「そんなに厳しいことを言われたら、みんな罪人じゃないか。」

神様の前では、みんな罪人なのです。

そのすべての人の罪に身がわって、イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださったのです。

イエス・キリストは律法と預言を成就するために来たと言われました。
人は自分の力では、罪人の道を離れることはできませんが、イエス・キリストはそれを可能として下さるのです。感謝ですね!








2013年1月30日水曜日

わたしはすぐに来る

今月から、水曜日の祈祷会の一回を聖書研究会の日として、聖書の大切なメッセージ、「イエス・キリストの再臨」について学ぶことになりました。

今日は、その第一回目。

旧約聖書と新約聖書を合わせると、イエス・キリストが再びお出でになる再臨について、1800回以上記されていると言われています。

聖書の言葉は、たった一回書いてある約束でも、実現してきました。これからもそうです。

だとすれば、再臨は必ずあるということではないでしょうか。

これは、大切なテーマです。

今日は、再臨とは何か、どうして再臨がなければならないのか、などについて触れました。

 

「以上すべてを証しする方(イエス・キリスト)が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』」(黙示録22:20)

 

2013年1月15日火曜日

Go,go,go,in Peace.


 
Go,go,go,in Peace.

Be Strong. Mysterious Hand Guide you!

「行け、行け、心安らかに行きなさい。力強くありなさい。見えざる御手の導きを」

--- 新島 襄

 

読売新聞の広告欄から

 

Go,go,goと力強く始まるこの英文。1875年に設立された同志社英学校の第1回卒業式において、校長新島襄が卒業生に送った言葉です。

キリスト教への理解が浅かった当時、新島は、この精神をもとに社会を切り拓こうとする卒業生に、希望を失わず「勇気と信仰をもって信じる道を突き進みなさい」と激励したのです。

その後、新島は、「同志社大学設立の旨意」を全国に発信し、日本で初めての私立大学の設立に着手しました。

掲げた建学の精神は「良心教育」。まさにいばらの道でしたが、語るその熱い想いに全国の人々が賛同し、同志社大学は設立されました。それは彼の永眠後22年目のことでした。

 

新島襄と共に同志社創設に尽力した妻・八重。
2013NHK大河ドラマ「八重の桜」はこの八重の物語です。

2013年1月11日金曜日

真の満足

月イチのキリスト教入門講座

【十戒シリーズの最終章】

出エジプト記20章17節(口語訳)
「 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」

他の訳では欲しがるともなっています。自分のものではないもの、自分の所有する権利のないものを欲しがり、望むこと。

これは行為ではなく、心の中で思うことに関する戒めなので、更に難しい内容に思います。でも心に思ったことは、行為にまで発展することはしばしばですから納得です。このむさぼりという罪が原因で、今までどれだけの人が不幸に陥ってしまったことでしょうか。

ヘブライ人への手紙13章5節には、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」とあります。

神様への信頼と神様が自分に与えておられるもので満足できれば、むさぼり、貪欲という罪から開放されることを教えています。

事実、神様は、「わたしは有って在る者」といわれ、ご自分が無の深淵を満たし、真の満足を与えることができるお方だと宣言されました。

このお方で心が満たされたとき、「足りないものは何もない」のです。なんと素晴らしいことではないでしょうか。


2013年1月6日日曜日

JOY


















今年最初のオープン礼拝が行われました。

元旦礼拝に続けて、ご近所の方も出席して下さり、感謝でした。

ヨハネによる福音書12章24節(口語訳)を中心に学びました。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

一粒の麦とはイエス・キリストのことであり、また、わたしたち一人ひとりのことでもあります。
イエス様は、人類の罪に身がわって十字架の上で一粒の麦となって死んでくださいました。
そのため、イエス様を信じる人の心に、罪のゆるしと永遠の命の実を今に至るまで豊かに結んでおられます。

豊かな実を結ぶために、イエス様は自分に死なれました。

わたしたちの人生において、「わたしが」「じぶんが」と言っている間はなかなか実を結ぶことができません。

「自分に死ぬ」という生き方の中にその秘訣があるのです。
自分に死ぬということは、わたしたちへの愛のために死んでくださったイエス・キリストの心を自分の心とすること。自分のことばかりではなく、他者のことを考えること。最後に自分のことを考えること。

この3つを、順序を守りながら生きていくとどうでしょう。

1)イエスの心を自分の心とする "JESUS"
2)他の人のことを考える "OTHER"
3)あなたのことを考える "YOU"

3つの頭文字をあわせると、"JOY" になります。

皆様の人生が"JOY"(喜び)に満たされますように。



午後は、今年最初のハッピーサンデーでした。
宿題がまだ残っているといいながらも、お友だちが来てくれました。
終わってから、宿題を終えて帰っていきました!!

新年ということで、
さんびとお話をした後、ビンゴ大会! 幼稚科のお友だちはカルタで遊びました。







2013年1月1日火曜日

よく見て、手で触れたもの

新年、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

毎年1月1日には教会で元旦礼拝が行われます。

今年の元旦は子ども達も一緒に、親子で礼拝をおささげしました。
元旦で帰省している方や、ご近所の方も数名加わって下さり、ともに賛美し、祈ることができてとても感謝でした。

今日語られたみ言葉

ヨハネの手紙 一 1:1-2

1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
 1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――