今日の午後、先月娘さんを亡くされ、教会で葬儀をさせていただいた方のお宅を訪問しました。
お母さんと、ご主人と共にお祈りをすることができました。
「元気なときは喧嘩ばかりしていたように思うけれど、今は、喧嘩する相手がいないことが寂しい」「自分のほうが年上だから、代われるものなら自分が代わりたいと思った」との言葉から、お二人の寂しさ、悲しさが痛いほど伝わってきました。
ただ、亡くなられたときのお顔が、無念の表情ではなく、地上の走るべき道のりを走り終えたような表情であり、また生前神様のことを知り、最後はすべてを神様にお任せしているお顔だったことが、本当に大きな慰めとなっていました。
愛する者を失うという悲しみは、人の言葉や励ましは何の力もないことを改めて教えらました。
同時に慰め主である神様が、ご家族の上に豊かな慰めを与えて下さるように願いました。
神様によるならば、悲しんでいるところに、真実の慰めがあります。
「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5・5)
0 件のコメント:
コメントを投稿