2012年2月29日水曜日

自分を変えて



雪の中、信徒の方々が祈るためにお越しくださいました。

祈祷会では、ローマ12章2節から学びました。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

ここでいう「心」とは、感情や、物事のとらえかたの基となっている、根本のようなものです。

心の根本の価値観が変わらないと、わたしたちはあまり変わりばえがしません。

では、わたしたちの心の深いところではどんな価値観があるのでしょうか?
どんな価値観の土台の上に、自分を置いているのでしょうか?

1)「他の人が認めてくれている」、ということに自分の価値を見出しますか?
2)「自分が何をしたか」「何ができるか」ということに価値を見出しますか?
3)「自分の思い通りにことが運ぶこと」に価値を見出しますか?

どれも、わたしたちの心にあるかも知れません。

ところがこれらは、みんな人を土台としますので、とても不安定です。

「心を新たにして、自分をかえていただき」とは、自分の人生(存在価値)の土台を自分や他の人ではなく、神ご自身とすることです。

この手紙を書いたパウロ自身も、律法を行っている自分に価値があると思っていましたが、復活のキリストとの出会いにおいて、神が彼の土台となってくださったことにより、彼の価値観、彼の人生は一変しました。

自分の力や努力によるのではなく、イエス・キリストが彼の心においでになることによって、彼の根本は造り変えられたのです。彼が変えられたことによって、世界に及ぼした影響は測り知れません。

わたしたちの心の根本が変わったら、周りに与える影響はどんなに大きなことでしょう。








2012年2月28日火曜日

大丈夫ですよ



3月11日 1年前の震災と同じ日にオープン礼拝を行います。
 
 この1年、わたしたちにとっても初めてのつらい経験をたくさんしてきました。今は、日々の生活に不便を感じることはないかもしれませんが、たびたび起こる地震、目には見えない放射能に対する恐れなど、不安材料はなくなることはありません。
 
 はたして、わたしたちが今抱えている不安や心配から解放され、もう大丈夫と言える日は来るのでしょうか。

 聖書は言っています。
 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ4・18)

 大切なのは見えない部分、それは心です。目に見えるところは何も問題がなくても、心が折れてしまっていたら、立ち上がることはできません。

 イエス・キリストは、そのようなわたしたちに、今も「恐れることはない」「起き上がりなさい」と、語りかけてくださいます。その一言一言はまるで「大丈夫ですよ」と言っておられるように心に響いてきます。

 今も変わらず語りかけてくださるイエスの言葉に、ぜひ耳を傾けてください。
 
 3月11日のオープン礼拝でお待ちしています。

 なお、オープン礼拝はどなたでも参加していただけます。何も持たず、普段着で「大丈夫」です。
 

2012年2月27日月曜日

神様と人との接点


昨日は、礼拝の後、教会の皆さんと小さなグループで輪になって、自分たちの家族、愛する人たち、また教会の周辺の地域の方々、この国に、そして世界に神様の祝福があるようにとお祈りし、その後、有志の方でご近所にチラシを配布させていただきました。

このチラシは、神様(教会)と人ととの接点だと思っています。

昨日の夕方、早速ご近所の方がチラシを見ました、といって教会の場所を確認しに来てくださいました。礼拝堂などをご覧になって、しばらくお話をして帰られました。この方も神様の愛に触れてくださったらいいなと思いました。

イエス・キリストも、ご自分は神と人との接触点だということをその言葉と奇跡を通して人々に示して行かれました。そして、心の目が開かれて、イエスを信じて、イエスを見つめた時、彼らはイエスの内に神を見、神と出会うことができたのです。


イエス・キリストは言われました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14・6)と。



P.S.千葉シャローム教会では、チラシの投函以外の、一軒一軒のお宅への訪問などは基本的には行っていません。そういった訪問にお困りの方は、ご相談ください。


2012年2月26日日曜日

負い目を赦してください



先週の日曜日でしたが、教会の男性のメンバーが自転車置き場のところにベニカナメを植えてくださいました。昨日は柵に木を結わえて完成。とても素敵に出来上がりました。寒い中のご奉仕に感謝します。


礼拝では、「主の祈り」の後半を学びました。
後半は、人にかかわる日常的、倫理的な三つの祈りです。

マタイによる福音書6章11節~13節
:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
:12 わたしたちの負い目を赦してください、
   わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

この祈りは、命をつなぐのに必要な糧を求め、罪の赦し(救い)を求め、試練からの助けを求める、いわば人間の本質的な必要を求める祈りです。

また、この祈りは、過去、現在、未来に対する祈りでもあります。

1)現在の必要を求める
 「今日の糧」を求めています。神様は私たちを養ってくださるお方です。
2)過去の問題に対する解決を求める
 「負い目を赦してください。」負い目とは罪を意味します。自分の心にある罪の赦し、罪からの救  いを求める祈りです。イエス・キリストの十字架より流された血のゆえに、わたしたちの罪を赦して くださいます。
3)未来を神の御手にゆだねる
 これから起こるかも知れない、誘惑、試練からの助けを求める祈りです。
 神様は、わたしたちを誘惑から救い出してくださいます。試練に対して勝利を与えてくださいます。


神様は、「わたしにゆだねなさい」と語っておられます。


あなたは、人生のすべてをゆだねることができる方がいらっしゃいますか。

2012年2月25日土曜日

罪人を招くために




栄光クリニック2Fの旧教会(衛川ホール)で家庭礼拝が行われました。

今日学んだ御言葉はこちらです。


マタイによる福音書9章12節~13節

:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


マタイによる福音書8章1節~3節

:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。


 8章に登場してくる一人の重い皮膚病を患った人とは、生まれながら罪人であり、神の前には死人同然の私たち人間の象徴です。
 そう思うと、わたしたちは、例外なく神様のもとに招かれた者ではないでしょうか。
 そして、今日もそのようなものたちの上に、イエスは手を差し伸べて、触れてくださいました。それは、神の憐みの御手、愛の御手、全能の御手でした。その時、「たちまち、重い皮膚病は清くなった。」 イエスの御手が、参加してくださったお一人おひとりに触れてくださったことを信じます。

神は愛なり!



2012年2月24日金曜日

自分のように愛し


昨日の読売新聞に「無縁社会」というテーマの記事が載せられていました。


〈無縁社会〉――寒々とした現実が広がっている。一人暮らしの老人が死んで発見されるのが〈孤独死〉なら、家族単位で人知れず死んで見つかるケースは〈孤立死〉などと呼ばれている◆さいたま市のアパートで60代の夫婦と30代の息子の一家3人、立川市のマンションで45歳の母と4歳の男児の2人。この2件の孤立死が相次いで発見された◆さいたま市の3人は餓死、立川市の母親は病死、その後、1人残された男児は重度の知的障害があり衰弱死らしい。いずれも死後1~2か月とみられる・・・◆血縁も地縁も社縁も、世間とのさまざまなつながりの崩壊した寒さは、孤独死から孤立死へ、家族ごと社会から孤立するような厳しい現実へと展開しているようだ◆大震災で強調された〈人間の絆〉の大切さはあらゆる人と人のつながりで言える。他人事ひとごとではない。


社会が抱えている現実を前に、自分の無力さを感じないではいられません。でも、そう思うだけで終わってしまったら、何も始りませんから、自分のできることをやりたいですね。


最初からむずかしいことはできないかもしれません。近所の人と顔を合わせれば、笑顔であいさつしよう。干渉されることは喜ばれない時代かも知れませんが、自分だけでなく、他の人のことも気にかけよう。


イエス・キリストが語られた重要な掟が心に響きます。


   「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22・39)


明日は、旧教会の栄光クリニック2F(衛川ホール)で午後1時から家庭礼拝が行われます。


家庭の祝福を祈り、また人と人とのつながりを大切にした暖かい集いです。
ご近所の方もたくさん出席してくださっています。もちろん費用は要りません。参加したいと思われる方は何も持たずにお気軽においでください。 事前に連絡くださると助かります。 
043-441-6684(教会)



2012年2月23日木曜日

3月のオープン礼拝


オープン礼拝のご案内です。


ご近所には、これからお配りします。ぜひおいでください。


場所などは、千葉シャローム教会のウェブサイトをご覧ください。


http://www.sepia.dti.ne.jp/chibashalom/


諸事情により電話番号を変更しました。
新番号は 043-441-6684



2012年2月22日水曜日

御心が行われますように


主の祈りの3つ目のお祈りです。


御心とは、神様のご意志のことです。


神様は、人間、そしてすべての被造物が、罪の支配から解放され、救われることを願い、そのために働きかけておられます。

でも、人間はそのご意志に逆らい、妨げようとしてしまう。それが罪の現実であり、人間の背後で働く悪の力の恐ろしさでもあります。

本当の自由って何か。それは、罪に縛られない自由だと思います。
愛せないと思えるような時にも愛せる自由。赦せないという思いが自分を束縛しそうになったとしてもそこから解放されて赦せる自由。喜べないような状況の中でも喜ぶことのできる自由です。

自分で頑張ってもなかなかこれは難しいのではないでしょうか。

でも、イエスはそれを可能としてくださるのです。

イエスを心に迎え、イエスと共に生きるとき、わたしたちは本当の自由の中を生きることができる。一人ひとりがこの自由に生きることができるようになれば、そこはもう神の国ですね。
神の御心はそこにあるのです。

教会では、礼拝のたびごとに祈っています。

「御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように。」






2012年2月21日火曜日

御国が来ますように


主の祈りの2番目の祈り、「御国が来ますように」。


御国とは神の国、天国のことで、神様がおられる場所です。


天国って、どこにあるのでしょう? やっぱり、遠いみ空の彼方でしょうか?


聖書は「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17・21口語訳)と教えています。
神様をその人の心に迎えたときに、その人の心が天国になるのだと。


天国は、神様が治められる平和な世界ですが、地上では、神様を心に迎えるまでの人の心は罪に支配され、自己中心で、心では愛したい、ゆるしたい、平和でありたいと願っても、まるで思いとは正反対のことをしたり、言ったりしてしまいます。


だからこそ、神様を心に迎えることを願いつつ、「御国が来ますように」と祈らずにはおられません。


この地上が平和であってほしいと願う方。このお祈りに加わってみませんか。


「天におられるわたしたちの父よ
御名が崇められますように。
御国が来ますように。」






2012年2月20日月曜日

御名があがめられますように


昨日の礼拝では、「主の祈り(前半)」を学びました。


だから、こう祈りなさい。
「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
  天におけるように地の上にも。」(マタイ6・9-10)


この祈りはイエス・キリストが祈るときにはこう祈りなさいと、弟子たちに教えられた祈りです。


「御名」とは?

日本人には比較的わかりやすいかもしれません。
「名は体(たい)を表す」という言葉があるように、御名は神様の本質、実体を表します。

聖書の国イスラエルでは、御名は神様そのもので、聖書では、神様は御名を示しながら人と出会われると言っています。

この御名(その一つを「我は主なり」と聖書では教えています)を呼び、御名が、わたしたちの心の中においでになり、心の中で、神様として崇められるとき、御名の中に宿っている神様の知恵、義、聖、命、力、愛がわたしたちを通して現わされていく。
そのことによって神様が、神様としてあるがままに崇められていきますように、との祈りです。

神様が、神様として崇められますようにと祈ると共に、主にある兄弟姉妹と一緒に、「わたしたちの父よ」と呼びながら神様に近づき、礼拝することができる幸いを心から味わいました。


聖書の神様は、天地万物をお造りになられたお方です。人間の存在を与えてくださったお方です。だから、わたしたちは神様にあって兄弟姉妹ですし、誰でも神様に近づくことができるのですね。





2012年2月18日土曜日

どのようなときも



詩編34編の御言葉をお届けします。

:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ
  わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
:3 わたしの魂は主を賛美する。
  貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
:4 わたしと共に主をたたえよ。
  ひとつになって御名をあがめよう。
:5 わたしは主に求め
  主は答えてくださった。
  脅かすものから常に救い出してくださった。


どのようなときも、神様をたたえ、賛美することができることはなんと素晴らしいことでしょう。


明日は、礼拝です。
イエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り(前半)」を学ぶ予定です。


共に主をたたえ、賛美し、御名をあがめましょう。初めての方でもどうぞ!






2012年2月17日金曜日

からし種一粒ほどの信仰


教会では、デボーションガイドという聖書を読み進めるためのツールを用いていますが、今日の御言葉の中の1節をご紹介します。


イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17・20)


からし種とは、上の写真にもあるように一粒は1mmにも満たないもので、とても小さく、聖書の中で最も小さなもののたとえとして登場してきます。クリスチャンは神様を信じていますが、一生懸命信じているようでも、十分ではないとイエス様は言われたのだと思います。からし種は小粒でもピリリと辛い。イエス様が言われた信仰とは、神から与えられる生きた信仰ということができるでしょうか。


かつてこんなことがありました。義理の妹が、つわりがひどくて、長い間苦しみ続けていました。義母から祈ってくださいとお願いされ、電話口で、祭壇の前で、何度も祈りましたが、いっこうに良くなりません。

しばらくたったとき、苦しむ娘を見るに見かねてたまらなくなった義母がまた電話をしてきました。義母もクリスチャン。わたしは牧師。どちらも信仰者ですし、神様に癒された経験も持っています。でも何度祈っても癒されない。その時、わたしも義母も改めて教えられました。神様からいただかなければ、過去がどんなに素晴らしかったとしても、今、生きた信仰を与えられなければ、わたしの信仰もゼロのようなものだ。「主よ、からし種一粒ほどの信仰さえ持っていないわたしたちを憐れんでください」と涙ながらに祈りました。

その祈りは、もう自分の祈り、自分の信仰ではなく、イエス様が与えてくださった信仰に切り替わっていました。

その時、義妹のつわりの苦しみは、無くなったのです。

電話を置いたそのあと、義妹は言いました。「気持ち悪いのがなくなった。」

イエス様が、一瞬にして癒してくださったのです。

イエス・キリストは生きておられる! 主の御名を賛美しました。



今日は、おゆみ野の信徒宅で、家庭集会がおこなわれました。
この生きた信仰が、この家庭の中で、またおゆみ野の地域で満たされますように!




2012年2月16日木曜日

若い母親たちの集い


教会の周りの新興住宅地(プラウドタウンと呼ばれています)にお住まいの、教会のメンバー宅で若いお母さんたちの集いが行われました。


寒い中、数名の方々が集まってくださり、ありがとうございました。


この集いは、智子師(牧師夫人)が担当しています。


結婚して、子供が生まれて、目まぐるしく変わって行く環境の中で、お母さんたちは、奮闘しています。きっと夫婦のこと、子育てのこと、人間関係などに悩み、迷っておられることでしょう。皆さん、自分の中にある思いをありのままぶつけておられるようで、楽しそうです。自分のことを何でも話してもOKな場としていますので、安心ですし、キリスト教とも縁がなく、聖書も何も知らなくても、大丈夫です。


月に一度の集いですが、お一人お一人の家庭が、仕事が、そして健康が祝福されますようにと祈っています。


「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」(出エジプト20・24後半)




2012年2月15日水曜日

足もとにひれ伏して

祈祷会では、一人娘の癒しを求めて、イエスのもとに来た、ヤイロという父親の祈りを学びました。


マルコによる福音書5章22節~24節

22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

ユダヤの指導者級の人が、イエスの足もとにひれ伏して、嘆願したということは、よほどのことだと思います。自分の命以上にかけがえのない娘の命を助けるために、あらゆる手段を尽くしたにも関わらず、効果がなく、ピンチに追い込まれてしまった。残された希望は、イエスのもとに走り行き、キリストの足もとにひれ伏し、その助けを願うことだけでした。


彼のキリストに対する信仰と、必死なまでの祈りはついにイエスご自身を動かしたのです。


何度もこの記事を読んでいるうちにイエス・キリストが働いてくださる秘訣に気がつかされます。


一つは、イエスに対する信仰です。そしてもう一つは、本気の祈りです。この祈りは人の熱心や、努力とは少し違うと思います。ひれ伏してみて初めて分かりますが、切なる祈りであり、嘆願であり、本気の祈りです。この祈りをささげた時、またささげ続けた時、ついにイエスは立ち上がってくださるのです。


今年、イエスによる素晴らしい救いを、すべての人に経験していただきたいと心から願っています。今日も、そのような思いで、熱く祈りました。


「イエスの足もとにひれ伏して、・・・『どうか、おいでいなって手を置いてやってください。そうすれば、娘は(人々は)助かり、生きるでしょう。』


そこでイエスは、・・・一緒に出かけて行かれた。」 








2012年2月14日火曜日

喜び・平安・愛

オープン礼拝の劇の最後に歌った曲です。お聞きください。(音は少し小さいですが・・・)



喜び 平安 愛 イェスのみ名にあり
信仰 恵み み救い イェスのみ名にあり

幸せ ゆるし 永遠のいのち
心のすべての希望 イェスのみ名にある

イェス イェス 今 生きている
イェス イェス わがすべてです。



2012年2月12日日曜日

心の底から喜びが

王女様は祈りました。

「イエス様はわたしの神様、イエス様はわたしの救い主様であることを信じます。今、わたしの心に、本当の喜びを与えてください。神は愛なり・・・・


おお、この喜びは何でしょう。心の底から喜びが湧きあがってくるわ。イエス様がわたしの心に来てくださったのね。イエス様ありがとうございます。神は愛なり!」


聖歌隊の皆さんが演じてくださったオープン礼拝の劇、「笑わない王女様」、素晴らしかったです。
皆さん、「楽しかった~!」「感動しました!」と言いながらお帰りになりました。2度の公演、お疲れ様でした!

2012年2月11日土曜日

人生最後の日


「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、
 今日やろうとしていることを、わたしは本当にやりたいだろうか?」


アップルのCEOであった故・スティーブ・ジョブスが語った有名な言葉です。
彼は毎朝鏡前に立ち、この言葉を自分に問いかけていました。


死と隣り合わせになることを経験したからこそ、真実味を帯びながら語ることができたのでしょう。
とても心に響く言葉であり、また大切な言葉だと思います。


今日の大切さを話しつつ、明日のことに触れるのはおかしいのかも知れませんが、明日は、オープン礼拝と午後2:30からはハッピーサンデー(子どもたちの集い)を予定しています。
今日は、自分に与えられた時間を、それぞれの集会の祝福を祈り、また準備をすることにできる限りささげたいと思います。


明日の劇の集会が素晴らしいものとなりますように。またハッピーサンデーが子どもたちの心と体の成長のために用いられますように。




2012年2月10日金曜日

オープン礼拝

オープン礼拝の案内を今日配り終えました。


毎月の案内は、大体教会から半径約1km圏内にお届けしています。
大体、徒歩で20分以内でたどり着くのではないでしょうか。


チラシを受け取った方はもちろん、どなたでも参加していただけます。


今回は、「喜びはどこから」というテーマで、千葉シャローム教会の聖歌隊のメンバーによる劇をお届けします。


何ももたず、普段着でおいでください。おいでをお待ちしています!



2012年2月8日水曜日

神の愛に燃える

祈祷会では、18世紀後半に米沢藩主・上杉鷹山が行った藩政改革の出来事から学び、教会のリバイバル(信仰復興)を祈りました。


深刻な財政危機にあり、破産状態であった米沢の国は、まるで火をもたない灰のような状態でした。ところが何気なしに煙草盆の灰をかき回しているうちに、彼は灰の中に小さな火種が残っているのを見つけたのです。


その火種が彼に希望を与えたのです。それは「心から藩を思い、彼についてきた少数の藩士たちがいる。その彼らが火種となって、胸に燃えている火を、次の藩士に移していくなら、必ず大きな改革の火になる」と。


この小さな火種がついに歴史に残る米沢藩の大改革を成功させるに至ったのです。


わたしは、この史実を知ったのはちょうど神学院を卒業して、千葉に派遣される直前でした。小さな火種であったとしても、確かに神の愛の火をわたしの心に点火していただいたのです。
いまだに小さな火種のような者であるかもしれません。けれども、今年、わたしの心にある火を燃え立たせていただけるよう祈ります。そして、千葉シャローム教会の内に愛の火がいよいよ燃え移り、ここに来たならば、神の愛に触れられる! という教会としていただきたいと心から願っています。


「そういうわけで、わたしが手をおいたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」(Ⅱテモテ1・6)神は愛なり!



2012年2月7日火曜日

心にもないことを

反省だけなら(ちょっと古い?)
心にないことを言ってしまった・・・。


誰かを傷つけて、そう思って反省している自分を発見することがあります。でも、これはあり得ないことで、実は言い訳に過ぎないのだということを聖書は教えています。


「口から出て来るものは、心から出るので、これこそ人を汚す。」(マタイ15・18)


こう言ってからイエスは、具体的なことを挙げておられます。


「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など」(同15・18)


それに対して、イエス・キリストと人格的に(心の内で)出会い、その心がイエスとの交わりの中で成長していったとき、豊かな実を結ぶことができると聖書は教えています。


その実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5・22-23)です。


そして、その人にかかわる人々は実際にそれらの実を味わうことができるのです。


そういう心の持ち主となりたいと願っています。

2012年2月6日月曜日

喜びはどこから

劇「笑わない王女様(練習風景)」
いよいよ来週の日曜日は、2月のオープン礼拝


「笑わない王女様」を上演します。


「ねえ、どうしたら喜びの泉がわたしのこころにおかれるようになるのか教えてくださいな?」

天使は答えて言いました。

「それは、少しもむずかしいことではありません。喜びの泉は、手の届くところにあるのですから。」



喜びの泉は、本当にあなたの手の届くところにあります。

おいでをお待ちしています!




2012年2月3日金曜日

キリスト教入門講座

午前中、教会でキリスト教入門講座が行われました。

初心者の方でもわかりやすく解説していきますので、教会のメンバーはもちろんのこと、教会に初めておいでになった方にもお勧めの講座です。

基本的に毎月第1金曜日10:30から12:00までの日程で行っています。参加費は要りません。

来月だけは、第2金曜日 3月9日(金)の予定です。

今は、7~8名の少人数で学んでいます。
初めて、という方もまずは参加してみませんか?



最近は、新約聖書マタイによる福音書をテキストとし、聖書の教えを学んでいます。
今日は、律法について学びました。


聖書の御言葉は、学べば学ぶほど、その奥深さ、豊かさに感嘆させられます。
そして、これを多くの人に味わってほしいと心から願います。


「御言葉が開かれると光が差し出で
無知な者にも理解を与えます。」(詩編119・130)