2012年5月30日水曜日

一粒の麦


「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12:24)

今日の祈祷会では、聖霊を受け、聖霊に満たされた一人の信徒ステファノが殉教した箇所にも触れました。

イエスを信じようとしない人達の迫害を受け、石を投げつけられ、ついに殺されてしまいました。

これは悲しむべき出来事ではありましたが、彼がキリストのゆえに、一粒の麦となって殉教したそのとき、彼の姿からは真実の愛があふれ出たのです。

そして、その姿に心打たれ、自らの誤りを悟った一人の青年がいました。あの迫害者サウロです。彼は、それからまもなく復活されたイエス・キリストとの出会いを通して偉大な使徒へと変貌していきます。使徒パウロの誕生です。

ステファノの死を通じて、偉大な使徒パウロが誕生し、み言葉のように多くの実を結びました。

生きるか死ぬかという問題よりも、大切なことはその人の中にあるものが真実の愛かどうかということが問われているのだと思います。わたしたちは自分の内側から何をあらわしているでしょうか。

「ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」(使徒6:15)


2012年5月24日木曜日

幸せのハードル
















1年経って、震災はある程度終わったのでしょう?

答え「全然」

もう慣れたでしょう?

答え「全然」

原発に一番近い教会の牧師・佐藤彰先生のことばが紹介されていました。

教会の信徒の皆さん60名と奥多摩で避難生活を強いられました。

人の記憶は長くは持たず、震災は過去の出来事と思ってしまうかも知れませんが、まだまだ続いているのです。

言葉で表せない辛いことがたくさんあったけれども、いいこともあったと言われました。

「この一年で数えきれないほど涙を流したが、幸せのハードルがずいぶん下がり、小さなことに感動することが多かった」と。

「生きていた」と言っては泣き、「会えた」と言っては泣き、暖かい食事に泣き、暖かい布団に泣き、人々の暖かい心に泣き、・・・。


幸せとは何なのか、とても考えされされました。


2012年5月23日水曜日

弱った手に力を
















今日の祈祷会では、イザヤ書35章3節、4節のみ言葉を学びました。

  「弱った手に力を込め
   よろめく膝を強くせよ。
   心おののく人々に言え。
   『雄々しくあれ、恐れるな。
   見よ、あなたたちの神を。
   敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
   神は来て、あなたたちを救われる。』」

「弱った手」とは、麻痺してしまって握ることができない手のことを言っています。
神の約束、神の言葉を握ることができず、約束の実現のために祈り求め、自分のものとすることができないで、途中であきらめてしまう。そういうことを続けていることを意味します。

神様は、そのような人にも、力を込めなさい、と力づけてくださいます。

「よろめく膝」の膝とは、祈りの姿勢を言います。それがよろめいているのですから、祈りを途中であきらめてやめてしまっていることです。

神様は、その祈りの膝を強くせよと命じられます。
約束の実現を見るまで、得るまで、祈りぬきなさい、と。

自分の現実、現状がどのように厳しくあっても、神様を見上げ、神様を見つめ、神の約束を信じて、祈りぬく時、必ず、神は来て、あなたたちを救われる。神様の救いが教会でも、家庭でも、わたしたちのおかれたところで実現する。

信仰の手を挙げて、祈りました!




2012年5月21日月曜日

原点に立つ

ネットで見つけた画像。千葉ではこんな感じで見えました。


















今日は朝から金環日食を見るために長男の通う中学校に行きました。
金環日食観測会があったためです。

ちょうど一番いい時間に雲が厚くなり、雲間から見えるわずかな時間だけ見ることができました。
雲が多かった分、観測用のメガネではほとんど見えませんでしたが、短い時間だけ肉眼でも見えました。宇宙を感じる不思議なひと時でした。

昨日の礼拝では、自分の神様との出会いの体験を短く証させていただきました。

実際、イエス・キリストを信じ、心に迎えたのは、小学生の時です。ただ、その時の印象はわたしの場合はあまり鮮明ではありませんでした。その後、中学校、高校、大学と神様の働きを肌で感じるできごとにたくさん出会いました。

でも、一番印象に残っている、そしてまた自分の歩みを支えるものとなった神との出会いは、神学院に行っているときでした。

主イエス・キリストが「我は主なり」との御名によって、わたしの心に現存し、わたしと一つとなってくださったことを実感した瞬間でした。神様の知恵、義、聖、あがない、力、命、愛がわたしの前進を駆け巡るようなできごとでした。

「生きているのはもはや、わたしではありません。キリストが、わたしの内に生きておられるのです」と言ったパウロの体験はこれなのだと分かりました。

そして、これがわたしの救いの原点となり、今の自分を支えるものとなっていることは、神の恵み、愛に感謝せずにはおられません。

自分の救いの原点に立つ、ということの大切さを改めて教えられました。



2012年5月18日金曜日

栄光の希望






















今日は、おゆみ野の家庭集会に行ってきました。

「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」(コロサイ1:27b)とのみ言葉から、イエスが神殿を清められた出来事を学びました。

このコロサイのみ言葉を語ったのは、パウロです。

彼はまた、わたしたちの心こそは神殿だと語っています。

神殿とは、神様が現存してくださっている場所のことで、もし神殿に神様がおられなければ、そこはもはや神殿としての働きをすることはできません。

パウロ自身も、最初は神様と言えば、遠いみ空のかなたに仰いでいました。そのため、彼と言う神殿は本来の働きをすることができなかったのだと思います。

けれども、彼が十字架の死より復活された生けるキリストと出会い、キリストが御名によって彼の心に現存してくださったとき、彼は新しくされ、彼を通して神と出会う人々が次々と起こるようになったのです。彼は生ける真の神殿とされたのでした。

彼は自分自身の体験を力強く証しするのです。わたしの内におられるキリストこそは、栄光の希望だと。

わたしたちにも、この栄光の希望を与えるために、パウロの心の内においでになられた主イエスは、今もわたしたちの心の神殿にお入りくださいます。 我は主なり!


家庭集会の後は、山武市にお住まいの老先生宅を訪問しました。1年半ほど前にご病気をされて以来ご自宅で静養しておられるため、時々お尋ねします。

わたしたちの群れにおいては、初期の先生で、お体は本調子ではないものの、お会いするたびごとに信仰の息吹を吹き込んでいただき、燃やされます。これこそ、生ける真の神殿ですね。









2012年5月17日木曜日

Souvenir d'Anne Frank

















教会のアンネのバラが咲き始めました。

1971年4月に、当教団の合唱団のイスラエルでのコンサート旅行中、偶然アンネの父、オットー・フランク氏と出会いました。その出会いをきっかけに、オットー氏と交流を深め、アンネの理想と理念を共有するわたしたちへの友情のしるしとして、「アンネ・フランクの形見」 ~ Souvenir d'Anne Frank ~ と名付けられたバラの苗を送ってくださいました。1972年のクリスマスのことでした。

今年は、日本に「アンネのバラ」が届けられて40年。今や平和のシンボルとして日本全土に咲き香っています。

今朝、最初の一輪が花を咲かせました。しばらく咲き続けますので、ぜひ、みなさん、おいでになって、アンネの思いの詰まったバラの花をご覧ください。







2012年5月16日水曜日

キリストと同じように

祈祷会では、ヨハネによる福音書20章21節、22節を中心に学びました。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

クリスチャンの使命は、神がキリストをこの世にお遣わしになったのと同じだと言っています。

ただ、それには一つの条件がありました。それは「聖霊を受ける」ということでした。

「せいれい」と言うと、たいていの方はひょっとすると「精霊」を思い浮かべるかもしれません。
「精霊」は、いわゆるわたしたちの周りにいるとされている諸々の霊のことを言っています。ところが「聖霊」は、神様より出るところの霊で、神とイエス・キリストと一体です。だから聖霊は神です。

だから、聖霊を受けて初めて、イエス・キリストと同じ使命を果たすことができるのです。

クリスチャンは、キリストの働きをこの地上で実現するために、「聖霊来てください」と祈ります。聖霊は、キリストのように生きる力を与えてくださるからです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)


2012年5月15日火曜日

種には命が
















写真はハスの実(種です)

種には命が宿っています。神の種、神の御名にも神の命が宿っています。
聖書は主の御名は、神ご自身の実体と言っています。

さて、この神の御名が、人の心に蒔かれた時、その人は神様ご自身を心に持つので、神様の性質をもつようになります。

教会に通われる、ある一人の婦人は、かつてご主人が病に倒れ、先の見えない暗闇の中でもがいていました。幼い二人の子どもを残して死のうとも考えましたけれども、死に切れません。

そんな時、親戚の方から、主の御名を呼ぶならば神と出会い、その心に神ご自身を持つことができることを聞き、ある集会に出席し、口を開き御名を呼び始めたその時、ちょうど畑に種が蒔かれるように、彼女の心に「我は主なり」との神の種、主の御名が蒔かれたのです。

その瞬間に、彼女の抱えていた苦しみ、悲しみ、不安はまるで何もなかったように消し去られ、その心に神様の性質である、愛、喜び、平安、感謝、そして命が力強く芽吹きました。

その時から彼女は別人のように変えられ、神の命に生きる人生を歩み始めました。

人の心を住まいとして歩まれるキリストが彼女の内から歩み始めた時、彼女を通して多くの人が彼女と同じ体験をしていきました。ただ、御名を呼ぶだけで、救いを経験していったのです。

その恵み、祝福は今も変わらず、あふれ続けています。

先日のオープン礼拝に来られた一人の方は、彼女の心からあふれるキリストの品性に魅せられて教会においでになりました。

そして、その秘訣を良く理解して帰って行かれました。

一つの種が芽を出し花を咲かせ、多くの実を結ぶ、そんな素晴らしい光景が見えてきそうです!




2012年5月14日月曜日

神の種
















昨日のオープン礼拝ではこんなお話しをしました。

千葉市の花にもなっている大賀ハスは、もうあとひと月もすると千葉公園で咲き始めます。

このハスは、今から61年前、大賀博士によって発掘された古代ハスの種が発芽したもので、大賀ハスという名前が付けられたことで有名です。

何でも2000年前の種と言うから驚きです。周りの人たちは、そんなに古い種が生きているとはだれも考えませんでしたが、博士はその種の中に宿っている命を信じていたのでしょう。ついに種は発芽し、花を咲かせたのでした。

聖書には神の種という言葉があります。

神の種は、神の命が宿っている神の言葉である「御名」のことです。

花の種にはその花の命が宿っていて、たとえば朝顔の種を蒔けば朝顔の花が咲きます。

同じように人が主の御名を呼んで、神の種が人の心に蒔かれると、その人は神のように、キリストのように変えられ、愛と喜び、平安、感謝という花を咲かせ、豊かな人生を与えてくださる、と聖書は教えています。

主の御名、それは「わたしは主である(文語では、我は主なり)」。

人が御名を呼び求めた時、どんなことが起こったのでしょうか?
それは明日、証しさせてもらいます。


今日は、東京の世田谷にある教会で、夏のジュニア・キャンプのためのスタッフ会が行われました。中学生のためのキャンプの大まかなプログラムを決めていきました。今年も若い人たちの成長のために思い切って色んな事に挑戦してきたいです!







2012年5月11日金曜日

キリスト教入門講座

今日は、月に一度の入門講座でした。入門と言いつつ、若干難しいテーマになってしまいました。

今は、映画でも有名となっている、モーセの十戒を学んでいます。

今日は、その3回目、三つ目の戒め(掟)を学びました。

出エジプト記20章7節
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」

「主の名」を「みだりに唱える」ことを禁止した掟です。

「みだりに」という言葉の意味は、一言でいえば「実体を伴わない」ということです。
実質を伴わず、むなしい、偽りの、取るに足りないという状態で神様の名を唱えることを禁止しているのです。

そこで、神様の名(御名と言っています)をもっと知るならば、みだりに唱えることはないのではないかと思わされ、神の名について学びました。

結論としては、神様の名は、御名「我は主なり」は、神様の存在を現わしている名です。
「我は主なり」という御名は、神の実体、神の命、神そのものです。

ですから、御名を唱える、御名を呼ぶということは、神様ご自身を呼び、神様ご自身を崇めることです。そのことが分かってきたら、御名の唱え方はきっと変わっていくと思います。何の気なしに、みだりに唱えることはなくなりますね。

参加した方が、「次からの礼拝や祈祷会での神様の御名の呼び方が変わると思います」と感想を話してくださいました。

信仰を込めて、崇めつつ、御名を唱えましょう。「我は主なり!」







2012年5月10日木曜日

これでいいのだ!























朝日新聞のデジタル版のニュースにこんな記事が掲載されていました。

宮崎市の市民団体がつくったコースターについての記事です。

漫画「天才バカボン」のパパのように、「これでいいのだ!」と楽天的にいこうと、少し笑えて前向きになれる言葉をそえた5種類が飲食店で使われているそうです。

一つを紹介しますと、

コースターの表面には「挨拶しても返事がない! 多分私は○○」と書いてあります。

皆さんだったら、続きをどうするでしょうか?

「多分私は嫌われている」とか「多分私は煙たい存在」とか「多分私は誰にも相手にされていない」とかついつい考えてしまうかも知れません。

このコースターの裏側は「多分私は 声が小さいのだ!」 となっています。いかがでしょうか。

どれもバカボンのパパがつぶやいているような調子で。ちょっと笑ってしまいます。

さて、神様は、わたしたちのありのままを、そのまま受け入れてくださいます。
神と出会い、神の愛に触れた時、自分の思い悩んでいたことが本当に小さかったことをしばしば思い知らされます。その時、本当の意味で「これでいいのだ!」と言うことができました。

神の愛に触れたその感動を歌った讃美歌をご紹介しましょう。


わが主をつたうる ことばもなし
我をばいだきて ささやくみこえは
「ものみなよし」「ものみなよし」




2012年5月9日水曜日

リバイバルはどこですか?

かつて英国のウェールズの田舎の町にリバイバルが起こりました。

リバイバルとは、信仰復興、イエス・キリストへの信仰に教会が燃え、再び元気を取り戻すことを言います。その結果、教会の中をイエス・キリストが巡り歩いてくださり、人々が救われ、病癒されということが次々と起こって行くのです。

リバイバルのうわさを聞きつけた人々は、ウェールズのリバイバルを見てこようと汽車に乗り、駅に着くと、その駅員に「リバイバルはどこでおこっているのですか?」と尋ねたときに、駅員が答えた言葉は有名です。

駅員は言いました。「リバイバルは、わたしのボタンの下でのです。わたしのハートの中。わたしの心の中でリバイバルは起こっているのです。」

気が付くと、どこかほかのところにリバイバルを求めていたのかも知れないと思わされました。

リバイバルはとこですか? それは、わたしの心の中で起こっています。

キリストへの愛と信仰が、心の内で燃え上がっていることができますように。


「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(ヨハネ21:15)

2012年5月8日火曜日

あれは主だ

















「イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに『あれは主だ』と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。」(ヨハネ21:5 口語訳)

イエスの言葉に従って、網を打つと、網が引き上げられない程の大漁となりました。
一晩中漁をして、魚一匹も獲れなかった彼らにとって、それは奇跡以外の何ものでもありませんでした。

弟子のヨハネは、このようなことができるのは、主イエス様以外にはないことを認め、叫んだのです。

「あれは主だ!」

教会でも、神様が行ってくださったのでないなら、考えられない奇跡的なことが起こります。
病が癒されること。自分の心をどうにもすることができなかった人の心が変えられ、新しい人生を歩み始める、といったことが起こります。

今年は、それが頻繁に起こることを願っています。いつでも、教会に来たならば「あれは主だ」と言うことのできる出来事がいつものように起こる。そんな教会でありたいです。



2012年5月7日月曜日

豊かに実を結ぶために


















復活されたイエス・キリストは弟子たちとガリラヤで会う約束をしてくださいました。弟子たちはガリラヤ湖でイエスを待ちますが、まだおいでになっていませんでしたので、彼らはその間に湖に漁に出かけます。

ところが、その日は何も獲れませんでした。あの日、彼らがイエスから弟子として招かれた時も、彼らは漁をしていましたが、魚一匹もとれなかったのです。

なぜでしょう?

どちらも、イエス不在のまま漁をしていたからです。

自分の経験、自分の力だけに頼っていたとき、何の獲物もなかったのです。

イエスは、言われました。

「わたしから離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5b)

特に、永遠に残る仕事、神様の事業においては、イエスを離れては何も実を結ぶことができないのです。

でも、この聖書の御言葉の前半には、豊かに実を結ぶ秘訣がはっきりと語られています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(同15:5a)と。

わたしたちは、その人生において、豊かに実を結んでいるでしょうか?


2012年5月6日日曜日

わたしを愛しているか

連休最後の日の礼拝にも関わらず、多くの方が出席してくださいました。

イエス様を愛し、集ってこられる方々! 素晴らしい!

礼拝では、ヨハネによる福音書21章15節~17、19節後半の御言葉からメッセージが語られました。

21:15
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
21:16
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
21:17
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:19b
・・・このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

十字架の死より復活されたイエスが、弟子の一人であるペトロに語りかけられた言葉です。
ペトロは情熱的にイエスに従う愛すべき弟子でした。最後の晩餐の時、彼は、他の弟子たちがついて行くことができなくても自分だけは従い続けることを雄々しく表明するほどの心の持ち主でした。
ところがそのすぐ後の、イエスが十字架にかけられる前夜、彼の決意はもろくも崩れ「イエスを知らない」と三度も主を否み、裏切ってしまったのです。

イエスはそのことを思い起こしてなのか、三度彼に「わたしを愛しているか」と尋ねられたのです。
彼はかつての失敗に心を痛めつつ、自分の無力なことを思い知らされ、謙遜に答えたのでした。

そんな彼の弱さや、罪をすべて十字架によって受け入れ、赦されたイエスは、彼をもう一度でしとして呼んでくださったのです。「あなたはわたしに従いなさい。」

イエス・キリストに従う。それはイエスのように生きること。そのためにイエスが求められたのは、イエスを愛すること。この愛は、ペトロがそうであったように、人間の持っている熱しやすく冷めやすい愛ではなく、愛する者のためならば命さえも捨てることのできる神の愛のことを言っています。

この愛を持たないならば、イエスのように生きることができないことを教えています。

わたしたちの教会も、イエスを愛する「この愛」に満たされながら、イエスに従っていく群れでありたいと願っています。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)




2012年5月4日金曜日

祈りに自ら答えよ


救世軍というキリスト教団の創始者ブース大将はこのような言葉を残しました。

「あなたの祈りにあなた自ら答えよ」と。

普通、祈りは神様が答えてくださるのでは、そのように思われるでしょう。確かにそうなのですが、この言葉は「イエス・キリストの名によって、神に祈った祈りに、あなた自身がまず確信を持つべきであり、すでに得たりと信ずべきである」という意味なのです。

イエス・キリストは「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と言われました。

その言葉を割引なしに信じることができる人は幸いです。

おお、イエスは今も生きておられる真実の神!永遠の命!




2012年5月2日水曜日

もし信じるなら

今日の祈祷会では、ヨハネによる福音書11章40節の御言葉から、「もし信じるなら」というテーマで御言葉を学び、祈りました。

「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」


この御言葉を実証した出来事がかつて起こりました。

京都の教会の方のMさんは、97日間におよぶ昏睡(こんすい)状態にありました。医学の力ももはや及ばない絶望的な状態で、もちろん本人は、信仰を働かせることもできません。

  しかし、信じ得ない時、人間の力が尽き果てた時こそ、「死人を生かし、無から有を呼び出される」(ローマ4:17)全能者のみわざが現れる時でした。「もし信じるなら神の栄光が見られる。」

  毎日、毎日、ベッドのかたわらで、意識不明のMさんの魂に向けて、家族は「われは復活(よみがえり)なり命なり」と、御名によって祈り続けたのです。

御名は神の実体です。キリストの御名は、くさびのように打ち込まれていきました。そして、ついにMさんを覆っていた病(やまい)は、キリストの御名の力によって粉砕され、復活の時を迎えたのです!Mさんは今もお元気で、教会の聖歌隊でご奉仕をしておられます。

  「イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くした。」(使徒3:16)


2周年を迎えた千葉シャローム教会の中で、この信仰が満ち溢れますように!



2012年5月1日火曜日

5月のオープン礼拝


5月のオープン礼拝の案内をご近所にお届けしています。

5月の第二日曜日は、「母の日」です。

実は、この「母の日」にカーネーションを渡して、日頃のお母さんの愛に感謝するという美しい習慣は、教会から始まったものなのです。それについては、後日お伝えすることにしましょう。

今年の母の日は、教会で過ごしてみてはいかがでしょうか。