2013年5月26日日曜日

主は助けて下さる

礼拝で繰り返し語られた言葉

詩編20編6節(口語訳)

「今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。主はその右の手による大いなる勝利をもって/その聖なる天から彼に答えられるであろう。」


とても慰めに満ちた言葉です。


油注がれた者とは、任職を意味していて、神様が選び出して下さった人のことです。


ペトロは、イエスの弟子であったにも関わらず、イエスが人々に捕らえられたとき、3度もイエスを知らないと言って、イエスを裏切った人でした。


けれども、神様はご自分が選び出した人を助けて下さいました。


聖霊を受け、イエス・キリストを心に迎えたペトロは、新しくされ、彼を通して、偉大な神様の救いが実現していきました。


わたしたちがどんなに弱くても、主イエス・キリストは助けてくださるのです。強めて下さるのです。


神様の救いはなんと素晴らしいことでしょう!





2013年5月23日木曜日

耳になる

毎週木曜日は、牧師との面談日にしています。
この日は、なるべく集会などの行事を入れないようにします。
面談がない日は、作業をしたり、訪問する日にしようと努めています。


今まで、初めて教会に来られたかたも含めて何人かの方の相談を受けたり、お話しを伺ったりしました。


そのたびに、以前、ある教会の先生が、自分は話しを聴いてほしい人がいれば、その話しを聞く耳になりたい、と話された言葉を思い出します。


今日は、普段教会に通っておられる方がお話しに来られました。


できる限り、心を傾けてお話しを聞かせていただきました。


地域の方もぜひ、お話しをする機会をもってほしいなと思います。
お金は要りませんし、信仰を強要することはありません。
もちろん、秘密は厳守します。


話しても無駄だ、なんて思わないで、心の内をお話ししてみませんか?


イエス・キリストは言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)



2013年5月22日水曜日

実を結ぶ


祈祷会では、実を結ぶということを学びました。


実を結ぶ、ということは実りある人生を送るともいえると思います。


教会では、わたしたちの内面が神様の力によって清められ、聖なる者とされること、また、文字通り救いを経験してクリスチャンとして加えられていくことも、実を結ぶといいます。神様が願っておられる出来事が、教会を通じて実現することも実を結ぶといえると思います。


そして、イエス・キリストはご自分を「ぶどうの木」といいわたしたちを「ぶどうの枝」と言い、枝が木につながっている間は、実を豊かに結ぶことができると言われました。


枝が木から離れたら、枯れてしまいますね。


イエス・キリストは、豊かに実を結びたいのなら「わたしにつながっていなさい」と今日も招いておられるのです。



「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)



 

2013年5月20日月曜日

イエスの名が強くした

19日の日曜日は、東京世田谷にあるソフィア教会で関東(東京、千葉、神奈川、山梨)にある教会のメンバーが集まってペンテコステ聖会が開催されました。


午前・午後と2回の集会で、とても恵みに満ちた集会となりました。


特に午後は、台湾の婦人が語られた、23年前ではありますが、自身の経験した救いと癒しの証しは、聞く人に神様は今も生きておられる真実なお方であるとの信仰を与えるのに十分でした。


過去の出来事のようではなく、その感動、その喜びが今も彼女の内面に生き生きとして現されたからです。


メッセージで語られた言葉の通りでした。


「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」
                                             (使徒言行録 3章16節)


「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマの信徒への手紙10章13節)



2回の聖会を感謝します!


2013年5月18日土曜日

希望をもち続ける



昨日はおゆみ野の家庭集会でした。


こちらでは、ルカによる福音書を中心のテキストにして学んでいます。


この日はルカ2章25節~38節までです。


イエス・キリストが誕生して40日経ったあと、ヨセフ、マリアに抱かれて、神殿に詣でたときの出来事で、今日は神殿で救い主のおいでを待ち望んでいた二人の老人シメオンとアンナに注目しました。


その1人、アンナは、わずか7年間で若くして夫と死に別れ、84歳になるまでやもめとして暮らしていました。数々の悲しみを知り尽くした人だったでしょう。けれども彼女は年老いてもなお希望を失わないで、神殿を離れず、救い主のおいでを待ち望みながら祈り続けていたのでした。


神様のお導きと憐れみによってついに、主イエス・キリストと出会い、この喜びを人々に伝える人に加えられたのでした。


聖書には、「人生の真の目的と目標(神こそそれである)」(マタイ1:21 詳訳)とあります。


人生の目的と目標を見出した彼らの喜びはどれほどだったことでしょう。


家庭集会を開いてくださっている方は、母子でクリスチャンです。お母さんは今年84歳。ご主人は結婚8年目で急死されたとのこと。数々の悲しみや試練を通ってこられました。


アンナと自分が重なって仕方がなかったとしみじみと語っておられました。


でも、そのおばあちゃんもかつて、イエス・キリスト様と出会い、人生が変わりました。
そして、今も、どのようなことがあっても、神様の恵みは変わることはないと、神様に感謝しつつ、希望を持ち続けている姿を見て、感動しました。


もう1人のアンナがここにいました。これからの歩みが祝されますように!




 

2013年5月15日水曜日

希望をもって喜び

祈祷会では、次の日曜日のペンテコステの聖会のために祈りをささげました。


「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:11,12)


わたしたちの信仰の先輩である、大槻筆子先生は、かつて50数年の信仰生涯を振り返えると、いつもこの言葉が心の支えとなったと言っておられました。


いろんな困難に直面し、「ようやく一つの山を越えたと思いますと、また目前にさらに高い山がそびえているのです。その時こそこのお言葉が一番の支えになりました。

『どんな試練・困難にも気落ちせず、山の彼方に希望を持ち、祈り続けなさい。私はいつもあなたがたと共にいる』と主は励まして下さいました。

・・・信仰は決して失望に終わることはありません」と。


どんなときでも、希望をもって喜ぶことができる! これこそ信仰の世界の素晴らしさです。




2013年5月14日火曜日

ファミリー

 

日曜日のオープン礼拝は、母の日ファミリー礼拝でした。

 

その最後に、秋に結婚することになっている方達の婚約式を行いました。

一人は、千葉シャローム教会のメンバーです。

 

集われた多くの方達の祝福を受けて、とても感動的なひと時でした。

教会は神の家族(ファミリー)です。

誰かに嬉しいことがあれば、みんなで喜び、悲しいことがあれば、みんなで悲しむ。そんな教会でありたいと思います。

 

婚約されたお二人に神様の祝福が豊かにありますように。

 

2013年5月12日日曜日

母の日ファミリー礼拝



5月の第2日曜日は母の日です。実は、この母の日を祝う習慣は教会で始まったのでした。


今日は、母の日ファミリー礼拝ということで、日頃のお母さんへの感謝をこめて、子どもたちも一緒に出席し、讃美と演奏をプレゼントしました。


家庭の中で姿を隠しながら涙を流して祈り、家族の幸せを願いながら、家族の知らないところで犠牲を払ってくださっているお母さんに感謝します。


お母さんがいてくれるからこそ、夫は、また子ども達は無事に過ごすことができるのです。
お母さん方の上に神様の豊かな祝福がありますように。


時には疲れきってしまうこともあるでしょう。様々な悩みに苦しんでいるお母さんもおられるかも知れません。


どうか神様が、お母さんたちの愛となり、力となり、信仰となり、勇気となって一人ひとりを支えて下さいますよう、祈ります。


愛よ来てください。 神は愛なり!





2013年5月9日木曜日

悲しむ人

今日の午後、先月娘さんを亡くされ、教会で葬儀をさせていただいた方のお宅を訪問しました。


お母さんと、ご主人と共にお祈りをすることができました。


「元気なときは喧嘩ばかりしていたように思うけれど、今は、喧嘩する相手がいないことが寂しい」「自分のほうが年上だから、代われるものなら自分が代わりたいと思った」との言葉から、お二人の寂しさ、悲しさが痛いほど伝わってきました。


ただ、亡くなられたときのお顔が、無念の表情ではなく、地上の走るべき道のりを走り終えたような表情であり、また生前神様のことを知り、最後はすべてを神様にお任せしているお顔だったことが、本当に大きな慰めとなっていました。


愛する者を失うという悲しみは、人の言葉や励ましは何の力もないことを改めて教えらました。
同時に慰め主である神様が、ご家族の上に豊かな慰めを与えて下さるように願いました。


神様によるならば、悲しんでいるところに、真実の慰めがあります。


「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5・5)





2013年5月8日水曜日

もし信じるなら





「もし信じるなら、神の栄光が見られる。」(ヨハネ11:40)


神様を「信じる」とは、全部を神様に任せて、自分には何も期待しないことだと教えられました。


自分に期待し、自分の力を頼っている間は、わたしたちは本当の意味では神様を必要としていません。だから、神様も働こうとなさいません。


「神様あなたが必要です。」


そのように心から叫ぶとき、神様は喜んでご自分の業を行なってくださるのです。


預言者エリヤが天に上げられたとき、エリヤの後継者エリシャは、今までの自分を脱ぎ捨て、エリヤの内に宿っていた神を頼りとしました。


その時、目の前に立ちはだかっていたヨルダン川は真っ二つに割れて、エリシャは川の底を歩いて渡ることができました。


彼は神様を信じた。そして神様が神様として働かれる、まさに「神の栄光」を見たのでした。


2013年5月1日水曜日

しののめを呼びさます




今日の祈祷会の前半は、月に一度の聖書研究です。
聖書に記されている、イエス・キリストの再臨について学びました。


イスラエルの偉大な王ダビデは、詩編の中でこのように歌っています。


「神よ、わたしの心は定まりました。
 わたしの心は定まりました。
 わたしは歌い、かつほめたたえます。
 わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
 わたしはしののめを呼びさまします。」(詩編57・7-8 口語訳)


彼は「しののめ呼びさまします」という言葉で「義の太陽」である「救い主(メシア)」を待ち望む祈りをささげました。これが神様の約束だったからです。


わたしたちもダビデの歌と思いを合わせ、教会に託された祈りを、ささげました。


「アーメン、メシアよ、来てください」と。